さて、今回紹介するのは任安じゃな。字は定祖、生年は124年で没年は202年じゃな。丁度曹操達とは世代が一つ違う感じじゃろうか。
さて、今回は任安の紹介じゃな。現代への知名度は低いが、生没年もはっきりわかっておる、なかなか珍しい人物じゃな。
どうも、張郃だ。任安も当時名声の高い人物であったが、これも演義の弊害か。
張郃さんは良く知っておっれる方なんですね。話からすると演義では出てきていない方ですか。
恐らくその通りじゃな。それでは任安についても見ていくとしようかのう。
人物紹介
さて、任晏じゃが蜀志『秦宓伝』に出てくるんじゃ。裴松之注の『益部耆旧伝』によると、任安は広漢の人であり、彼もまた周舒や董扶と同じく楊原に図讖の術を学び、図籍(図讖の書物)を極めつくし、都を見物してしまうと故郷に帰って学生を教えた、とあるんじゃ。
董扶と学問・品行において同等の名声を博した(周舒以上とも言われ)程だったんじゃよ。
郡が功曹の官に、州が侍中別駕の官に就任を要請したんじゃが、結局長くは在官しなかったんじゃ。
短い期間とは言え、出仕しているのが任安と周舒の違う点であろうな。
その後は孝廉と茂才に推挙され、太尉に招聘され、博士に任命され、公用車で招かれたほどであったが、全て病気と称して就任しなかったんじゃよ。
その後、秦宓の推挙もあって、劉焉が推薦の上奏文を奉じたんじゃ。
「任安は老壮の教えに則って生活し、節義を磨き高邁な人物です。その器量を考えてみるに国家の大宝と言えるでしょう。
当然、補佐の役において面倒な問題を処理させ、尋常でない現在の災厄を除去させるべきかと存じます。玄纁(「げんくん」赤黒い色の絹)を贈物として招聘の」
ほぼ文句なしに絶賛の嵐、という感じだが、それぐらい名声が高かった、と言うことだな。まあ老壮の教えに則っていた、と言うことは宮廷のあくせくした生活は性に合わなかったのであろうな。
じゃが、この上奏文は朝廷への連絡の道が塞がれていて、結局招聘の命は下らんかったんじゃ。後に諸葛亮が任安の優れたところを尋ねると、秦宓は次のように応えるんじゃ。
「人の善事を記憶し、人の過失を忘れることです」
褒めて伸ばして決して叱責はしない、という人柄だったんじゃろうかのう。さて、任安のエピソード紹介はここまでじゃな。続けて能力評価と行こうかの。彼はワシのみの評価じゃな。
能力評価
任安はその名声は周舒以上とも言われ、董扶にも並ぶほど、更に劉焉からの強い推薦もあり、孝廉や茂才、博士に推挙されるほどであった、当代を代表する知識人の一人であった、と考え知謀を特に高い評価としたんじゃ。この辺りは周舒と同じじゃな。
ただ周舒よりはマシじゃが、出仕をあまりしておらんことから政治面の評価はもう少し、と言う感じにしたんじゃよ。
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雑談ぢゃ
さて、任安の能力評価じゃな。
彼もまた図讖の術に優れ、学者として多くの後進を育成したようなんじゃ。蜀志に列でンしておる内の何人かは彼の弟子なんじゃな。
褒めて伸ばせる人物っていいですね。老荘思想に傾倒していることも関係あるのでしょうか。
基本あるがままに物事を受け入れるような考え方じゃからな。上でも書いているように宮廷内のギスギスした環境は好まなかったのかもしれんのう。
能力の問題でなく、正確の問題であろうからな。恐らく短期の出仕でも実績は残していたのだろう。
そう言う意味では政治はもう少し高くしたかったところじゃがな。さて、任安の紹介はここまでじゃな。良ければ次も見てくださるとうれしいぞい。
よし、今日は終わりだな、俺も一旦帰るか。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。