さて、今回は董扶の紹介じゃな。字は茂安、生没年は不明じゃな。蜀の重鎮じゃが、彼もまたその実態をあまり知られていないのではなかろうか。それでは董扶について見ていくとしようかのう。
さて、今回は董扶の紹介じゃな。
益州に天子の気が、と伝えた人物ですね。彼がどれぐらいの評価になるのかちょっと興味ありますね。
うむ、それでは早速董扶について見ていくとしようかのう。
人物紹介
劉焉に従い入蜀
蜀志『劉焉伝』の裴松之注『益部耆旧伝』によると、董扶は若くして先生について学び、いくつもの経書あわせ通じておったんじゃが、なかでも欧陽氏の尚書学を得意としておったんじゃ。
更に楊原に師事し、図讖の奥義を極めておったんじゃよ。
都の出て太学に遊学した後、故郷に帰って人々に学を授けたところ、弟子が遠方より学びにやってきたとのことなんじゃ。
167年に日蝕が起こり、帝は賢良方正の士を推挙させ、文書によって政治の得失を答えさせたんじゃが、この時に左馮翊の趙謙等は董扶を推挙したんじゃが、董扶は病気により長安より機密の意見書を奉っただけで、結局故郷に帰ってしまったんじゃ。
董扶は宰相の役所から前後十度も召され、また朝廷さしまわしの車で三度も招聘され、二度賢良方正、博士、有道の士に推挙されたが、どれも応じなかったんじゃ。
これだけ何度も推挙されている、と言うのもなかなかすさまじいものがあるな。
彼の名声はより重々しいものになった、とあるんじゃよ。
何進の推挙
ここに来て大将軍の何進が上奏して董扶を推薦したんじゃよ。
「董扶は孔子の弟子の子游・子夏の徳を身に着け、孔子の教えを祖述し、内に焦氏・董氏の消復の術(神秘的傾向を帯び、災異を消滅し元の状態に戻す)を秘めた人物です。現在幷州・涼州は麻の如く乱れ、西方の蛮族は謀反への動きを見せています。
どうか朝廷さしまわしの車で特別にお召し出しになり、通例外の優遇処置を取られ、優れた政策を諮問なさいますように。」
誰かの入れ知恵かもしれんが、これだけの上奏ができる何進の扱いが、小説とかは軽すぎるのよな。
この上奏により霊帝は董扶を召し出し、即座に侍中に任命したんじゃ。朝廷にあっては儒宗と仰がれ、甚だその人格を重んじられたんじゃよ。
じゃが丁度この頃劉焉に、益州に天子の気がある、と進言し、自身も希望して蜀郡の属国都尉に任じられたんじゃ。
そこから1年で霊帝が崩御し、天下は大混乱となったんじゃが、侍中を辞していた董扶には如何ともしようのない出来事であったのであろうな。
董扶の人物像
董扶は意見を述べ激しく議論を行う人物で、益州地方で彼と並ぶ者は少なく、そのため彼は「至止」と呼ばれたほどだったんじゃ。
これは彼と対等に議論できる者はおらず、彼が至った場所では議論が止む、と言うことだったんじゃよ。
演義の諸葛亮を少し見ているような気分だな。それだけの大物であった、と言うことであろうな。
さて、彼も霊帝の死後、程なくして没しているようなんじゃ。没年ははっきりしておらんが、彼が亡くなった時の年齢は82歳であった、と言うことから、任安よりちょっと上ぐらいであろうかのう。
諸葛亮が秦宓に董扶の長所について訊ねた時、秦宓は次のように応えたんじゃよ。
「毛筋ほどの善を賞賛し、けしつぶほどの悪を非難いたしました。」
微に入り細を穿つように、細かいところにまで目くばせを怠らなかった、と言うことじゃな。見れば見るほど諸葛亮に似たものを感じるのう。さて、続けて能力評価と行こうかの。彼は鄭問さん以外の作品に登場じゃな。
能力評価
董扶は図讖の術だけでなく、政治学の方にも造詣が深いことから特に政治の方を高い評価としたんじゃ。特に細かい部分にも目が行き届く点が老荘思想に染まっていた任安とはまた違った特徴を持っていると思えるんじゃな。
軍事面では特に目立つ実績がないため、抑えめの評価じゃな。
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雑談ぢゃ
さて、董扶の能力評価じゃな。
三国志14は妙に能力が低いな。劉焉に入らぬ知恵を授けた人物だから、嫌われたのかもしれんな。
天舞三国志は比較的妥当なところではないでしょうか。傾向も師匠の評価にちょっと近いですね。
図讖の術に優れていたから、知略面ももう少し高くても良いように思うんじゃがな。
まあ三国志前夜の人物であるからな。その辺りの影響が結構大きいのであろう。
そうじゃなあ。諸葛亮に似た側面を感じる身としてはもう少し評価が高くても良さそうじゃがな。さて、董扶の紹介はここまでじゃが、如何じゃったろうか。良ければ次もよろしく頼むぞい。
よし、呉懿の紹介は終わりだな、俺も一旦帰るか。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。