三国志に釣られクマー

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孟光(もうこう) 字:孝裕(?~?)その1

さて、今回は孟光の紹介じゃな。字は孝裕、生没年は不明じゃな。演義では無名な人物じゃが、彼は蜀において重要な役割を担った人物なんじゃよ。

 

さて、今回は孟光の紹介じゃな。

どうも、張郃だ。孟光は蜀を代表する学者の一人なんだな。 

張郃さん詳しいですね。有名な方なんでしょうか。

学者として大成した人物だからな。学問の世界に身を置いていれば、何度も耳にする人物だ。立伝されている人物でもあるしな。 

今回はそれなりにボリュームがあるので、二回ぐらいに分けてみるとしようかのう。

人物紹介

孟光の学問

蜀志『孟光伝』を見ると、元々孟光は河南郡洛陽県の出身の人物で、後漢で太尉になった孟郁の一族でもあった、と言うことなんじゃよ。

名族にも見えるが、孟郁の兄である孟賁は中常侍であった、と言う。中常侍は一般に宦官が就く職だ。

であるなら孟一族は曹一族や袁一族のように身内に宦官がおり、彼らの助力もあって高位に登ることができたとも言えるな。

さて、孟光は霊帝の末年に講部吏となった、とあるんじゃよ。ちなみにこの講部吏の役割がどんなものかはちょっと調べてみたんじゃが、はっきりとは分からんかったんじゃよ。すまんのう。

後漢朝廷に仕えておった孟光じゃが、献帝董卓に連れられ、長安に遷都した際に、蜀へと逃げ込んだようなじゃよ。

劉焉父子は彼を客礼を以て待遇した、とあるんじゃな。

ちなみに彼は博学で古代の知識に詳しく、あらゆる書物を読破していたようなんじゃが、その中でも特に『三史』(『史記』『漢書』『東観漢紀』)の研究に意を注ぎ、漢王朝の古い制度に詳しかったんじゃよ。

劉備益州平定

孟光は『公羊春秋』を好む一方『左氏(春秋)』には批判を浴びせ、来敏とこの両伝の『春秋』の解釈について優劣を議論すると、孟光はいつもわあわあとまくし立てていた、とあるんじゃ。

『公羊春秋』も『左氏春秋』も『春秋』と言う歴史書に対する代表的な注釈書だな。関羽が暗誦していたのが『左氏春秋』だな。

このように学者としては優秀なのはもちろんじゃが、性格的にはクセの強い人物、それが孟光と言う人物の本質ではなかろうか。

そんな孟光じゃが、劉備が蜀を平定した後に重要な役割を担うようになるんじゃよ。

まず、劉備益州を平定した後、孟光は議郎に任命され、宮中の制度の制定に携わるようになるんじゃ。

更に、劉備が皇帝に即位となった際に、即位の儀式を取り定めるメンバーの一人に選ばれておったんじゃな。

これも『三史』を研究し、漢王朝の制度に精通していたからこそ、と言う訳じゃな。

さて、そのように重要な役割を担った孟光じゃが、その後の彼はどうなったのか気になるところじゃのう。

と言ったところで今回はここまでじゃな。良ければ次もよろしく頼むぞい。

 

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