さて、今回は呂常の紹介じゃな。彼も字と生没年共に不明じゃな。さて、この呂常と言う人物、一体どんなことをやった人なんじゃろうな。
さて、今回は呂常の紹介じゃな。
どうも、張郃だ。呂常と言うと魏にも将がいるが、彼とは別人と言うことになるのか?
益州の人物と言うことは別人のように思うのですが、実際どうなんでしょう。
うむ、そこは少しややこしい感じなんじゃな。それでは呂常について見ていくとしよう。
人物紹介
さて、呂常の出番じゃが、蜀志『呂乂伝』に出てくるんじゃよ。
呂常は呂乂の父であり、丁度劉焉が蜀に入る際に呂常は蜀に入るのを送ったんじゃが、その後、道が不通となったために帰還することができなくなり、呂乂は幼くして孤児になってしまった、とあるんじゃ。
道が不通になった、と言うのは恐らく張魯が漢中に居座り、中央との道を途絶させたことを指すのであろうな。
さて、魏の蒋の呂常との関係じゃが、呂乂の出身地を見ると荊州の南陽郡とあるんじゃが、魏の将である呂常もまた荊州南陽郡の出身なんじゃ。
じゃが、魏の将になっておると言うなら、呂常は中央へ帰還できたことになるが、215年頃に張魯が曹操に降伏するまでは容易に抜けることはできんかったはずじゃ。
一方で魏将の呂常を見ると208年の荊州征伐の際、曹操に従って南下している記述があり、時期的な矛盾があることから、別人ではないかと思うんじゃよ。
呂乂の父としての呂常には、これ以上の記録はないようなんじゃな。
と言ったところで呂常の人物紹介はここまでじゃ。続けて能力評価と行こうかの。今回はワシ以外では天舞さんに出てきておるようじゃな。
能力評価
呂常は記録が少ないことから全体的な能力は抑えめじゃな。じゃが、息子の呂乂は優秀な郡太守・官僚であったことを参考に、呂常も政治を一番高めの能力としたんじゃよ。
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雑談ぢゃ
さて、呂常の能力評価じゃな。
魏の呂常は軍事面でも才を発揮していたし、やはり別人のように思えるな。
年齢的にはどうなんでしょうか。
魏の呂常は221年に没しており、呂乂は251年じゃから、親子と言ってもおかしくないぐらいの差ではあるんじゃな。
ふむ、この辺りが余計、もしかして、と言う気にさせるのかもしれんな。
とは言え、やはりワシ個人としては別人説を採っておきたいとこじゃのう。さて、呂常の紹介はここまでじゃが、如何じゃったろうか。そして劉焉陣営の紹介もここまでじゃな。
よし、それでは俺も一旦帰るか、次もよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。