さて、今回から新たな勢力の人物紹介じゃな。最初は張津の紹介じゃな。字は子雲、生没年は不明じゃな。袁紹陣営にいた張津とはまた別人なんじゃよ。さて、こちらの張津はどんな人物なのかのう。
さて、今回は張津の紹介じゃな。
と言うことは交州の重鎮と言うことですか。
うむ、そこは少し状況が違うんじゃよ。彼は気概はあったのじゃろうが恐らく色々なことが重なって実績を残すことができんかったようなんじゃな。
人物紹介
さて、張津じゃが、幾つかの場所に記録が残っておるんじゃが、まずは蜀志『許靖伝』のところじゃな。
許靖が曹操に送った書簡の中には以下のように書いてあったんじゃよ。
「張子雲(張津)は昔都におりました時、王室を助けまいらせんと願っておりました。今最果ての地(交州)を治め、朝廷に参内することはできませんが、やはり国家の重鎮であり、外部にいる足下のお味方でございます。」
許靖の評価ではかなり高いのだな。しかし彼は志半ばでなくなってしまった。
これが呉志の方になると少々状況が違ってくるんじゃな。
呉志『薛綜伝』によると薛綜は張津のことを以下のように表しているんじゃよ。
「交州刺史となった南陽の張津は、荊州の牧劉表と行き違いを起こしますと、味方の兵力は弱体で相手は強力であるのに、年ごとに(荊州に対する)軍事行動を起こしたため、武将達はうんざりし、難儀なことだと思って、勝手に持ち場を離れたりいたしました。
張津はこれを取りまとめようといささか規律を強めましたが、威厳が足らず、カエッテバカにされて、結局は殺害されてしまいました。」
まるで見てきたかのように書いているが、そもそも薛綜は世代が違って、直接張津のことは見知っていないのだろう?薛綜が出てくるのは220年前後、30年以上後ではないか。
まあ、許靖の手紙も彼を憎んだある人物によって川に捨てられたそうじゃから、本当の張津評がどんなもんじゃったかは分からんが、同時代人の評価の方をワシは押すぞい。
それに呉側は常に交州を狙っておったから、そのバイアスにより不当に書かれている可能性も有ると思うがしの。と言ったところで張津の人物紹介はここまでじゃ。続けて能力評価と行こうかの。今回はワシのみのようじゃな。
能力評価
張津は許靖と薛綜二人からそれぞれ違った評価を受けた難しい人物じゃが、同時代人と言うことでより許靖の方によって政治と統率を高め賭したんじゃよ。
じゃが軍事的には目を見張るような記録はないこととから軍事を、また区星に最後やられてしまうことから知謀を少し抑え目の評価とさせてもらったんじゃ。
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雑談ぢゃ
さて、張津の能力評価じゃな。
薛綜の評価はそれ以外にも交州を治めていた外聞インゲンに対してはかなり辛目の評価をしていたから、そう言うことなのだろう。
呉の国益になる人物かどうかで、書き方が変わっていると言うことですか。
まあその可能性は有るのう。実際張津がそんなにしょっちゅう荊州にちょっかいかけたような形跡はあまり感じられんしのう。
まあ交州辺りは結構混沌とした状況であったのは確かだからな。書簡関係も個人の発言と同様、参考にはしても全面的に信用するのは危険だ。
そうじゃな、あくまでも何を成したか。そこが基準じゃからのう。さて、張津の紹介はここまでじゃが、如何じゃったろうか。そして劉焉陣営の紹介もここまでじゃな。
よし、それでは俺も一旦帰るか、次もよろしく頼むぞ。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。