さて、今回は銭博の紹介じゃな。字と生没年共に不明じゃな。さて、銭博と言う人物も謎が多い訳じゃが、どんな人物なんじゃろうなぁ。
さて、今回は銭博の紹介じゃな。
どうも、張郃だ。銭博か、姓から見ると彼も異民族っぽい印象を受けるな。
この辺りに来ると、本当に知らない名前の方がどんどん出てきますね。本当に色んな人物がいるのですね。
うむ、交州の三国以外の情報は小説とかでは不要じゃからな、それでは早速見ていくとしようかのう。
人物紹介
さて、銭博の出番じゃが、彼はもまた呉志『薛綜伝』に出てくるんじゃよ。
薛綜が孫権に送った書簡に張津のことが書かれており、張津が亡くなった後、後を継いだのは頼恭と言う人物だったんじゃが、劉表が呉巨と言う人物を送り込んで二人が諍いを始めるんじゃ。
結局は呉巨が頼恭を追い出し、その後歩隲が送られるんじゃが、薛綜は次のように言っておるんじゃ。
「かつて張津の下で武将であった夷廖や銭博と言った連中が、なおたくさん残っておりましたが、着任した歩隲は順番にそうした者達を根こそぎにして行き、行政の体制も何とかあります。」
ふむ、つまりは夷廖と同じような立場であった、と言うことか。
じゃが、ここから夷廖とは道が違ってきておるようなんじゃ。
呉志『呂岱伝』をみると、220年に呂岱は歩隲の後を継いで交州刺史となり、交州に着任するんじゃが、その際高涼の不服住民たちの首領であった銭博が降伏してきた、とあるんじゃよ。
そこで呂岱は孫堅の許可を得て、銭博を高涼西部都尉に任じた、とあるんじゃよ。
銭博は生き延びて最後は孫権配下になった、と言うことじゃな。張津配下の中では一番の勝ち組だった、と言えるんじゃなかろうか。さて銭博の人物紹介はここまでじゃ。続けて能力評価と行こうかの。今回はワシのみの評価じゃな。
能力評価
銭博は不服住民のリーダーと言うことから腕っぷしには自信が合ったであろうと言う考えから、軍事を高めの評価としているんじゃ。
また、情勢を判断して孫呉陣営に降伏したと言う判断力の高さより、政治も高めとしたんじゃよ。
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雑談ぢゃ
さて、銭博の能力評価じゃな。
そう言えば同じように立ち位置で、こちらの方が情報は多いのに、夷廖と違って天舞三国志にも出ていないのだな。
そういえばそうですね。名前とかも被りそうにないですし入らないのが少し不思議に思いますね。
弱小勢力じゃから、代表する一人(夷廖)で十分、と言う風に考えたのかもしれんのう。無条件に全員入れていくと収拾はつかんくなるじゃろうし。
どちらかと言えば銭博の方が記録が多いことから、こちらを残しても良かったかもしれんな。
まあそうかもしれんが、そこは決め方次第じゃからな。めんどくさければワシのようにとりあえず全員ぶち込んでいけば良いんじゃよ、ほっほっほ。さて、これにて銭博の評価は及び張津陣営の紹介は終わりじゃな。次からは新しい勢力の紹介じゃ。
よし、それでは俺も帰るぞ、次もよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。