さて、今回は朱符の紹介じゃな。字と生没年共に不明じゃな。実は先に挙げた張津の前の交州刺史なんじゃよ。実際は朱符が亡くなり、張津に代わったのはもう少し先かもしれんが、詳しい年代がはっきりしないので、こちらも出したんじゃよ。
さて、今回は朱符の紹介じゃな。
どうも、張郃だ。同時代に交州刺史が二人か、苦しい紹介の仕方だな。
本当のところ張津はもっと後の時代に赴任したかもしれないのですか。
その可能性は高く、ワシも迷ったんじゃがな、交州は勢力が少ないこともあって、今回特別じゃが両者を出すこととしたんじゃよ。
人物紹介
さて、朱符なんじゃが、実は彼は黄巾の乱などで活躍したあの朱儁の息子にして、以前出ておった朱皓の兄にあたる人物なんじゃな。
そんな朱符の出番じゃが、彼もまた呉志『薛綜伝』に出てくるんじゃよ。
薛綜が孫権に送った書簡に張津のことが書かれておると言うのは、張津の紹介の所でも書いた通りじゃが、張津の前の刺史であった朱符のことも書いてあるんじゃよ。
「故の刺史であった朱符は多く同郷の人物を取り立て、それぞれの土地の長官とならせ、人々を侵害し虐待し、民衆に厳しい税金を課して、黄魚一匹につき、米一石を取り立てました。
人々は怨みを抱いて反抗し、山中の不服住民たちが各所に出没して、州の役所を攻め郡の役所になだれ込みました。
朱符は逃亡して船で海に浮かびうろうろとさすらう内に死亡いたしました。」
山中の不服住民たちと言うが、彼らは元々戸籍から逃げている人民達ではないのか。それとも税金で多数の人民が山中に逃げて不服住民と化したのか、はっきりしないな。
呉志『士燮伝』を見ると、交州刺史の朱符が異民族の反乱によって殺されると、その治下の州郡は乱れて収まりがつかなくなった、とあるんじゃよ。
この書き方じゃと朱符の治世下では州は治まっておった、と言う風にも読み取れるのう。この辺りの地域では異民族の反乱などは当たり前のように発生しておったであろうしのう。どっちが本当なんじゃろうか。
と言ったところで朱符の記録はおしまいなんじゃ。それでは続けて能力評価と行こうかの。今回はワシのみの評価じゃな。
能力評価
朱儁は軍政のバランスの取れた、オールラウンダーあ人物であったが、息子の一人の朱皓は統率と政治に優れた部分を引き継いだことから、朱符は武ばった部分を引き継いだとみて軍事と知謀の方を逆に少し高めとしたんじゃ。
『薛綜伝』では彼の統治は失敗だったように書かれておるが、『士燮伝』ではそこまででもないようじゃから、政治も抑え目とは言え、極端に下げてはおらんぞい。
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雑談ぢゃ
さて、朱符の能力評価じゃな。
彼もまた評価の難しい人物だな。父が朱儁と言うことは、親の七光りでもなさそうだしな。
朱儁はそう言う無能な息子を無理やり押すような人物ではない、と言うことですか。
元々朱儁は勢族ではないし、彼の人物像は義理堅く生真面目、と言った感じじゃからのう。
まあ普通に朱符にも何らかの才があったとは思うのだが、記録に残っていないのは何とも残念だな。
そうじゃなあ。さて、これにて朱符の評価は及び紹介は終わりじゃな。
よし、それでは俺も帰るぞ、次もよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。