さて、今回は児孝徳の紹介じゃな。字が恐らく孝徳、生没年は不明じゃな。彼は「児(げい)」と言ういささか変わった姓なんじゃが、最初読みが分からず、三国志巻末の検索がなかなかできんかったんじゃよ。
さて、今回は児孝徳の紹介じゃな。
どうも、張郃だ。児孝徳はまた珍しい人物だな。
児を「げい」とは最初は読まないですね。最初は分からないかもしれませんですね。
彼もまた演義には出てこないマイナーな人物じゃからのう。それでは見ていくとしようかのう。
人物紹介
さて、児孝徳なんじゃが、彼の出番は蜀志『許靖伝』に出てくるんじゃよ。
許靖が交州に流れて、曹操に送った書簡に次のように書いているんじゃよ。
「(前略)南海を渡り終え、領主の児孝徳と出会いましたところ、足下(曹操)が忠義の心を奮いたたせ、兵車を整え、西方に進んで天子のみくるまをお迎えになり、中岳を巡行なさったと聞き知りました。(後略)」
ふむ、許靖殿が交州に行ったと言うことは時期的には200年より少し後ぐらいの頃か。
そうじゃな。曹操が献帝を迎えにあがった、と言う話を聞いて許靖は仲間たちと再び北上して、洛陽に行こうとしたようなじゃが、折悪しく郡内で異民族の反乱が起き、仲間の数人が倒れ、身内も多くが亡くなり、何とか交阯の士燮の下まで逃げることができた、と言う状況だったようなんじゃよ。
児孝徳もこれっきり名前が出てこないんじゃが、反乱に巻き込まれて亡くなったのか、真相は不明なんじゃよ。
さて、これで児孝徳の人物紹介はおしまいじゃな。続けて能力評価と行こうかの。今回はワシのみの評価じゃな。
能力評価
児孝徳は恐らく蒼梧郡の太守として200年頃統治しておったと思うんじゃ。許靖の手紙に書いてある通り、中央の情報にも精通しており、統治者としてはそこそこ有能だったと思い政治を高くしたんじゃ。
じゃが民衆に反乱を起こされておるのを、どう表現するかで迷ったんじゃが、これにはある策略があるかもしれんと思い、それに引っかかった形で知謀を抑えめとしたんじゃ。ある策略についてはまた後日語ることとなるじゃろう。
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雑談ぢゃ
さて、児孝徳の能力評価じゃな。
ふむ、策略と言うと思いつくのはあれぐらいか。
むむむ、張郃さんは思い当たる節があるんですね。この辺りの情勢に暗い私は全く分からないです。
まあ仕方ないじゃろう。この辺りを興味持って調べる人は三国志好きの中でもそうは多くないじゃろうからのう。
僻地は演義等の小説でも語られることが少ないからな。だが中華以外の国との関係も深い面白いところだぞ。
そうじゃな、この辺りは東南アジアの歴史とも関わりを持ってくるからのう。さて、これにて児孝徳の紹介は終わりじゃな。良ければ次もまた見てくだされい。
よし、それでは俺も帰るぞ、次もよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。