三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

士燮(ししょう) 字:威彦(137~226)その2

さて、士燮の紹介2回目じゃな。今回は士燮が孫権に従う前後辺りからの話をしていくとしようかのう。今日はどこまで紹介できるかのう。能力評価まで行けると良いんじゃがのう。

 

さて、今回は士燮の紹介2回目じゃな。

どうも、張郃だ。それにしても137年生まれと言うことは191年当時で50を超えているのか。 

孫権と比べると本当にお爺ちゃんと孫ぐらいに離れているのですね。

孫堅はまだ10にも満たない年のはずじゃからなあ。そんな相手に臣従するとは忍耐強い人物じゃな。

人物紹介

士一族の権勢

さて、先日お話した交州刺史の朱符、そして張津も亡くなると、漢の朝廷は士燮に璽書(皇帝の印璽のある書簡)を下したが、それには次のようにあったんじゃ。

「交州は隔絶した地域にあり、その南は大河と海とに面して、上からの恩徳も十分には及ばず、下々の者の忠義の心が中央に届くこともないままであった。

そうした状況を利用して、逆属の劉表めが、またも頼恭を遣わして南方の土地を伺おうとしておることを知った。

それを阻止すべく、ここに士燮を綏南中郎将に任じ、七郡(南海、蒼梧、鬱林、合甫、交阯、九真、日南)の監督を当たらせる。交阯太守の任務はこれまで通りとする。」

通常、自分の出身地の州の刺史や牧にはなれんが、これは特例としてその権限を師匠に与えているのと同義な話だな。特殊な土地柄、と言うのもあるが士燮に対する絶大な信頼がなければできぬことだ。

これに対し士燮は張旻を遣わして、貢納品を京師に詣かせた、とあるんじゃよ。

当時天下は混乱の極みにあり、道路も通じなくなっていたのであるが、それでも士燮は貢納の義務を果たし続け、朝廷もそれを嘉し、特別に重ねて詔が下され、安遠将軍の職を賜り、龍度亭侯に封ぜられた、とあるんじゃよ。

士燮の兄弟たちは皆それぞれ郡の太守を務め、並ぶ者のない権威を振い、土井損の位置を保った、とあるんじゃよ。

外出や期間の際には鐘や馨(石の楽器)が鳴らされ、儀仗を整え楽隊が従い、おつきの車馬や騎馬が道いっぱいにあふれ、彼の乗る馬車の左右に付き従って香を焚く胡人が何時も数十人ほどいたんじゃよ。

妻妾達の輜輧車(おんな車)に乗り、子弟たちは歩兵や騎兵を従えて、一世に重んぜられ、異民族の者達を服従させた様は尉他だとて、それを超えるものではなかった、とあるんじゃよ。

尉他とは前漢の始めベトナム辺りに独立政権を建て、自ら南越武帝を称した人物。前漢初めだから勢力を維持するのは大変だったろうにそれを成し遂げた人物だ。

それすらも越える政権を師匠は築いた、と言うことだな、大したものだ。

さて、そのような状況に変化が生じるのは210年のことじゃ。丁度赤壁孫権曹操を破り、いよいよ版図を確立させた頃、孫権は歩隲を交州刺史として派遣してくるんじゃ。

歩隲が任地に就くと、士燮は兄弟達を引き連れて、歩隲の支配下にはいるようになるんじゃ。

さて、ちと短いが孫権に従うまでの状況として丁度キリが良いので、今日はここまでとしようかのう。次は孫権に従うようになってから、そして能力評価じゃな。

 

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