さて、今回は士祇の紹介じゃな。字や生没年は不明。さて、彼はどんな関係だったのかのう。早速見ていくとしようかのう。
さて、今回は士祇の紹介じゃな。彼は士燮の子に当たる人物なんじゃよ。
どうも、張郃だ。まあ考えてみたら191年の時点で士燮は60を超えている訳だからな。成人男性がおってもおかしくはないか。
士燮は結構子供が多かったのでしょうか?
記録を見る限りは結構いたようじゃな。じゃが191年当時で紹介するのは士祇のみじゃな。それでは士祇について見ていくとしようかのう。
人物紹介
さて、ここで紹介はしておるが、士祇の出番は時代は226年、兄の士燮が亡くなってからの話なんじゃよ。呉志『士燮伝』になると、士燮が亡くなると、孫権は交州支配のために、士一族の権益を奪い、圧力をかけてくるようになるんじゃ。
具体的には合甫以北を分離して広州となし、呂岱を刺史として派遣するんじゃよ。
見ればわかると思うが、基交州と言われたエリアの大部分が広州となり、広州の左下のわずかなエリアの交阯及び上の地図には載っておらんがベトナム方面の日南郡や九真郡のみが交州となったんじゃよ。
更に交阯郡は長年士燮が太守として統治をおこなっていたんじゃが、孫権は士燮の息子(恐らく跡取り)の士微を九真太守・安遠将軍に任じ、陳時と言う人物を交阯太守に任じて、交阯郡と士一族との地縁を断ち切るような措置を行っておるんじゃよ。
これ等の措置に士壱は従っておった(元々士壱は合甫太守)んじゃが、士燮の息子の士微は孫権に反旗を翻してしまうんじゃ。
そしてこの反乱に士微の兄であった士祇も同調してしまうんじゃな。
その後派遣された呂岱の策で、降伏すればその身の安全を保障する、と言う言葉を反故にされ、降伏したところで全員捕まり処刑されてしまったんじゃ。
ちなみにこの時新設した広州じゃが、士一族を滅ぼした後、しれっと元の交州に戻しているんじゃよ。それだけ孫呉が交州支配するために手を尽くしておった、と言うことじゃな。
もっとも、士燮のような統治はできんかったようじゃがな。結局現地民を搾取対象としか見なかった考え方では、うまく行かんのは当然じゃろうな。さて、そんなところで士祇の紹介は終わりじゃ。続けて能力評価と行こうかの。彼も鄭問さん以外の作品に登場じゃな。
能力評価
士祇は士微の兄であるにも関わらず跡取りにはなれず、また、弟に同調したことで最後は斬られると言う、二重の意味で不幸な人物じゃ。
跡取りになれなかったのは能力が足りなかったのか、母の地位が低かったためかは分からんが、父に類似した傾向を示しつつも、評価としては抑えめとしたんじゃよ。
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雑談ぢゃ
さて、士祇の能力評価じゃな。
ふむ、これは案外三国志14が一番評価が高いのではないか?
師匠と天舞さんは全体的に、抑え目の評価になっていますものね。
ただ、共通しているのもあるぞい。今回は紹介しないが、弟の士微と比較した時、基本的には弟の士微の方が高めの評価となっている点じゃな。
ふむ、具体的な比較は士微の紹介の時にしてもらおうとするか。お主が覚えていればな。
う、うむ、後継者の紹介も結構な人数がおることから、士微の紹介も時間かかると思うがじっくり待ってくれると嬉しいぞい。さて、それでは士祇の紹介はここまでじゃな。
よし、今日はここまでだな、俺も帰るとするか。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。