三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

袁徽(えんき) 字:不明(?~?)その1

さて、今回は袁徽の紹介じゃな。彼は袁一族の一人としてかなりの名声があったようなんじゃが、詳細は知らない人も多いのではなかろうか。士燮の所でも出てきておる人物じゃな。

 

さて、それでは袁徽の紹介じゃな。

どうも、張郃だ。袁徽は袁渙殿の従弟に当たる人物だな。袁渙も魏の列伝に名を連ねるほどの人物だが、袁徽もまた袁渙とは違った才を見せた人物だな。 

私は二人とも知らない方なのですが、袁紹袁術とは繋がりがあるのでしょうか?

系譜としては別の袁氏のようじゃな。じゃが袁渙などはその論理の正しさに袁術でさえも聞かぬわけにはいかなかった、とあるぐらいの硬骨漢であったようじゃな。

人物紹介

袁渙と袁徽

さて、袁徽については兄に袁覇という人物がおったんじゃよ。彼は公正謹厳な人柄で事務能力があり、非常に評判の高かった人物、とのことじゃ。

一方弟の袁徽は儒学によってかねてから評価されておったというんじゃが、袁宏の『漢記』に一つのエピソードがあるんじゃよ。

天下に動乱の兆しがあった時に、袁渙は高ぶった様子で次のように言ったんじゃ。

「漢の王室は衰微しつつあり、動乱は目前にある。仮に天下に騒動が起これば逃亡して一体どこに行けばよいのか。

もし天にまだ道徳を存続させる意思があるならば、人民は道義に頼って生きていける。

ひたすら強固に意思を保ち礼を失いさえしなければ、身をかばうことができようか。」

これに対して袁徽は次のように応えるんじゃよ。

「古の人はこう申しています。『変化の兆しを察知すること、それこそ神業である』と。変化の兆しを察知して行動するからこそ、君子は大吉を受けられるのです。

天の道には盛衰があり、漢はもうすぐ滅亡するでしょう。そもそも大きな功績が打ち立てられるためには必ず大きな事件があるものです。

これもまた君子が十分承知していることでありますが、(我ら小人などはその混乱を避けるため)一歩引いて、自己の行動を天道の微妙な動きの中に潜ませるのです。

それに戦争が起こった後は、外から災難がたくさん加えられるに違いありません。私ははるか山や海のある場所へのがれて、わが身の安全を求めたいと思います。」

袁渙殿が理想主義的で他人の道義・道徳をあてにするような側面があるのに対し、袁徽殿はずいぶん現実主義的な考え方の持ち主なのだな。

そうじゃな、実際に袁徽は騒乱が起こると遠く交州の地に移り、戦乱を避けた訳じゃからな。

この後、司徒府からの辟召もあったようなんじゃが、結局袁徽は交州の士燮の下に留まり続けたようなんじゃな。

士燮に対する称賛

この時期袁徽は荀彧に手紙を送って、士燮を大変高く評価しておるんじゃが、上のエピソードを読んだ後にこれを見ると、また少し袁徽に対する見た目が変わるのではないかと思い、再録するぞい。

「交阯の士府君(士燮)は豊かな学識を持たれた上に、政治のやり方にも通じておられ、大乱の中に身を処して、一郡の安全をはかり、二十余年に渡りその領内には事もなく、民衆たちはそれぞれの仕事を守ってゆくことができて、故郷を失った人々も、皆その恩恵を受けております。

竇融が河西の地を安全に保ったと言う例も、これに過ぎるものではありません。(竇融は前漢末から後漢初期にかけて活躍し、混乱する涼州を見事に治めた人物)

また公の仕事にいささかの暇ができると、いつも古典を学習し、特に『春秋左史伝』については深く詳しく習熟しておられ、私はしばしば彼に『左伝』の中の疑問点について訊ねましたが、その答えはちゃんとした学者の説に基づくもので、議論も甚だ綿密なものでした。

更に『尚書』については、古文家の説と近文家の説との双方に通じて、その根本の意味合いをも詳細に把握しておられます。聞けば京師(みやこ)では古文と近文の学説の間で、その是非についていきり立った争いがあるとのこと。

ここに『左史伝』と『尚書』とに関する(士燮の)議論の内でも特に優れた部分を箇条書きにして献上したく思います。」

若い時分からすでに学者として高い名声を持ち、現実主義者である袁徽が、手放しで称賛する士燮がどれだけ凄いか、そしてその凄さを十分に伝える袁徽の表現力もたいしたものだな。

さて、実は袁徽にはまだ逸話が残っておるんじゃが、結構な長さになりそうな感じじゃから、いったんここで切るとしようかのう。

まさか士燮以外の人物で複数回にまたがる人物が出てくるとはのう。それだけ名士と呼ばれる連中が避難してきていた、ということじゃな。

 

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