三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

程秉(ていへい) 字:徳枢(?~?)

さて、今回は士燮の紹介3回目じゃな。今回は孫権に仕えて後の士燮、それと能力評価まで見ていくとしようかのう。

 

さて、今回は程秉の紹介じゃな。

どうも、張郃だ。ほう、程秉か。士燮陣営では一番の有名どころではないか。 

演義でもちらっと名前を見たような気がしますが、そこまで演義では有名ではありませんよね。

演義ではあまり有名ではないが、正史を見るとなかなかの重要人物じゃな。

人物紹介

若き日の程秉

程秉の出身を見ると汝南郡の南頓の出身なんじゃよ。

鄭玄が生きているうちにその学問を授かることのできた人物、と言うことから180年頃にはすでに成人しておった(鄭玄は200年没)と思われ、さらに戦乱を避けて交州に移住した、とあることから、ちょうど190年頃は士燮の下にいたと考えられるんじゃ。

程秉は交州にいた劉煕と言う学者と世界の根本道理について互いに論じ合い、その結果広く五経に通じるようになった、とあるんじゃ。

五経とは「易・書・詩・礼・春秋」の五つの経典のことを指しておる。関羽の春秋等五経の一つに精通する人物はいるがすべてに精通するとは大したものだ。

士燮は彼を長史に任命した、とあるんじゃよ。さらにその後、孫権は程秉が優れた学者であると聞くと、手厚い礼で以て彼を招聘し、彼がその招きに応じてやってくると、太子太傅の任を授けたんじゃよ。

太子太傅とは太子の師、ここでは孫登の教育係じゃな。

孫登との関係

225年、孫権が太子の孫登のために周瑜の娘をめとってやった時には、程秉を太常(宮中の式部卿)の職にあてて、呉まで妃を迎えに行かせたが、孫権は程秉の乗る船まで親しくやってくると、鄭重な例でもって程秉を送り出した、とあるんじゃよ。

呉から戻ってきた後、程秉は何気ない場で孫登に説き聞かせていったんじゃ。

「婚姻とは人倫の始めをなすものであり、王者の教化の基でございます。されば聖王はこれを重んじ、衆に率先して手本を示し、天下を教化したのであって、だから『詩経』でも夫婦仲睦まじい関雎の鳥を誉める歌をその最初に置いているのでございます。

どうか太子様には、奥様との関係においても、礼教を尊ばれ、周南の篇が歌っておりますところを心に留められますように。

そうされますれば、上つ方においては正しい道による教化が盛んとなり、下つ方においてはほめ歌が唱われるということになるのでございます。」

孫登もこの辺りは十分承知していたのか、笑って答えるんじゃよ。

「その麗しきを行い従いて、その悪しきを正し救る(とどむる)ことこそ、太傅殿に期待しているところなのだ。」

孫登の台詞は『孝経』の文句だな。程秉の教えも見事だが、鮮やかに切り返す孫登も大したものだ。

その後、程秉は在官中に病気により亡くなった、とあるんじゃ。

生前、程秉は『周易摘』『尚書駮』『論語弼』等合わせて三万余字の著述を残した、とあるんじゃ。

残した著述の量からも彼の博学ぶりが伺えるのう。さて、これにて程秉の紹介は終わりじゃな。続けて能力評価と行こうかの。彼は鄭問さん以外の作品に登場じゃな。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 程秉(20歳)  55 40 90 105
 ↓ ↓ ↓  ↓↓ ↓↓↓
 程秉(45歳)  84 68 123 139

 

程秉は優れた学識から太子の教育係となり、王としての在り方等、重要な指摘を孫登に行っていることから政治を一番高い評価としたんじゃ。

外交などでは特に実績もなく知略を発揮する場面はないことから、知謀は政治に比べると抑えめじゃな。

 

三国志14(Max.100)
   統率   武力   知力   政治   魅力 
 程秉  16 14 68 72 65

 

天舞~三国志正史~(Max.16)
   武勇   采配   策謀   政治   外交   人徳 
 程秉  1 2 3 10 5 9

 

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雑談ぢゃ

さて、程秉の能力評価じゃな。

これは分かりやすいな、皆政治が一番高く、知謀・知略がそれに次ぐ  

程秉に関してはあまり大きな違いはないようですね。

そうじゃな。学者と言うのは案外評価が難しいんじゃが、彼に関してはどの作品も同じような傾向を示すようじゃな。さて、程秉の紹介はここまでじゃが、如何じゃったろうか。良ければ次もよろしく頼むぞい。

よし、今日はここまでだな、俺も帰るか。  

張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。