さて、今回は公孫度の子供の一人である、公孫恭の紹介じゃな。彼は遼東公孫氏の中でも一時期後継者となった時期があったようなんじゃ。それでは公孫恭について見ていくとしようかのう。
さて、今回は公孫恭の紹介じゃな。公孫度の子にして、後継者であった兄の公孫康が亡くなった後、公孫恭が後を継いでおるんじゃよ。
どうも、張郃だ。文帝の時代に公孫恭は車騎将軍、仮節に任じられ、平郭侯に取り立てられている。
とは言え、これは公孫康の本来の跡継ぎである公孫淵等が幼かったためとのことから、臨時の後継者だったようじゃな。
そう言えば昨日紹介した公孫淵に位を奪い取られたんでしたか。
そうじゃな。それでは公孫恭について見ていくとしようかのう。
能力評価
さて、それでは各項目について史書の内容を紐解いていくとしようかのう。
軍事
軍事に関しては魏書『公孫度伝』の所で車騎将軍に任じられているものの、特筆すべき実績はなく、逆に甥の公孫淵に脅迫され、位を奪われているんじゃよ。
ちなみに公孫恭は陰萎を病み、性的不能者となり資質劣っていた、とあるが、これは能力が劣っていたと言うよりも、後継者を作れない体は父祖の血を途絶えさせてしまうため、儒教では不孝に当たることと捉えられているからだな。
統率
統率も軍事同様、公孫恭には特筆すべき事績がなく、公孫淵の反逆を受けたことから、抑え目の評価としたんじゃよ。
統率も軍事同様に実績がなく、甥に位を奪われていることから抑え目の評価としたわけなんですね。
知謀
知謀に関しても特筆すべき記録はないようじゃな。
知謀も軍事、統率同様に実績がないことから抑えめの評価と言うことだな。
政治
政治も特筆すべき記述はないが、文帝(曹丕)が当時遼東にいた管寧を招いた際、公孫恭は彼を境界の外れまで見送り、更に衣服器物を贈ったとあるんじゃ。そういう細やかな気遣いのできる人物だったと考えられるんじゃよ。
細やかな気遣いができる部分を政治として評価し、この中では一番高い評価とした、と言うことですね。ただどちらかと言うと繊細な性格が、乱世向きではなかった、と言う感じでしょうか。
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簡単解説
今の時代の日本ですと、結構独身の男女も多いのですが、当時の儒教の考えではありえない、と言うことなのですね。
そうだな、戦争や飢饉等で人命はすぐに失われてしまう。一族を繫栄させるため後継者をちゃんと作るというのは、非常に重要だった、と言うことだな。
さて、公孫恭の紹介はここまでじゃな。それでは今日はこの辺りで終わるぞい。良ければ次もまたよろしく頼むぞい。
まあ一回ですっとできるわけではないからな。都度調整していくしかないだろう。それでは俺も戻るぞ。
張郃さん、お疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。