さて、今回は公孫度の子で後継者であった公孫康の紹介じゃな。字や生没年は不明なんじゃが、記録を見る限り、彼も父に劣らずの器量の持ち主であり、なかなかの野心家でもあったようじゃな。
そう言えば張郃殿は袁尚と袁煕征伐の際、張遼殿と共に先陣を任されていましたのう。
異民族の烏丸とも確か戦ったんでしたよね。
あの時は敵と戦うよりも、道を切り開くことの方が大変であった。あの辺りは公孫瓚との戦いでも何度か行ったが、いつも難行程ばかりであった。
下手をしたら、更に遼東まで攻め込まねばならんところじゃった訳じゃからのう。そう考えると公孫康もうまく立ち回ったと言えよう。それでは公孫康について見ていくとしようかのう。
能力評価
さて、それでは各項目ごとに評価理由を見ていくとしようかのう。
軍事
軍事に関してじゃが、魏志『東夷伝』を見ると、高句麗がしばしば遼東郡で略奪行為を働いた、と言うことで、公孫康は軍を出して高句麗に攻撃を加え、その都を破って邑落を焼いた、とあるんじゃよ。
父も異民族との戦いで実績を残しているが、息子の公孫康も高句麗相手に勝利するぐらいの手腕があった、と言うことだな。
統率
同じく魏志『東夷伝』を見ると、後にまた高句麗が玄菟郡に攻撃してきた、とあり、玄菟郡は遼東郡と連合してこれを撃退した、とあることから防衛任務にも長けていたようじゃ。更に後継者争いに敗れた高句麗の王子抜奇が、降伏してきたのも受け入れる度量の広さも併せ持っておったようじゃ。
戦場においては攻守ともにスキがなく、そつなくこなせる、と言うことですね。
知謀
袁尚たちが曹操に敗れ、遼東に逃げ込んだ時のことじゃ。魏志『袁紹伝』内の裴松之注『典略』によると、袁尚は生まれつき武勇に優れており、公孫康の軍勢を奪うことを考えておったようなんじゃ。じゃが公孫康も計略を立て、精兵を潜ませ、彼らを呼び寄せると一気に捕え、首を斬ったとあるんじゃよ。
見事な策略だが、それにしては思ったほど高い数値にはなっていない。ふむ、そういうことか。
政治
公孫康は屯有県以南の辺鄙な地を分割して帯方郡を作り、公孫模や張敞らを送ってその地に取り残されていた中国の移住民たちを結集し、兵を起こさせて、韓と濊を討たせたんじゃ。これにより韓に流入していた移住者も戻ってくるようになり、また韓や倭は帯方郡の支配を受けるようになったんじゃよ。
支配地域を広げ、人口も増加させるという理想的な統治をおこなっていたわけですね。それで政治力が特に高くなったと言うことですね。
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簡単解説
そう言えば張郃さん、公孫康の知謀が思ったよりも高くないとおっしゃって、そのあと納得されていたようですが、理由は分かったのでしょうか?。
ああ、あれは公孫康がうまくしてやったように見えて、結局は丞相の掌の上で踊らされていただけに過ぎないからだ。
曹操さんが何か策略を放っていた、と言うことですか。でも特に何かをやったようには見えませんが。
そこが丞相の凄いところだ。もしあのまま袁尚たちを追いかけ、遼東まで進軍すればどうなる?公孫康もただではすまないと考え、袁尚らと手を結んで対抗するだろう。だが、こちらが兵を引いて戦う相手がいなくなれば・・・。
なるほど、これは袁尚と袁譚の時と一緒なんですね。こちらから攻めれば協力して対抗してきますが、一旦引くと、今度は内輪で争いだす、と言うことですね。
そう言うことだ、押してだめなら引いてみろ、と言うことだな。丞相はあそこで追撃をかけずに兵を引き、公孫康に袁尚達を始末させることに成功した、と言うことだな。
張郃殿の話で正解じゃな。策略にかけてやはり曹操と言うのは恐ろしい人物じゃと思う。余計な損失も出さずに袁一族を亡ぼすことに成功したのじゃからな。とは言え、公孫康も版図を朝鮮半島の方まで大きく広げた訳じゃから、やはり優れた人物と言えよう。
確かにな、惜しむらくは寿命が短かった、と言うところだろうか。
そう言えば公孫康が亡くなった時、公孫淵と公孫晃の兄弟はまだ幼かった、とありますね。
公孫康は没年ははっきりせんのじゃが220年の少し手前だったと思うんじゃ。公孫度の跡を継いだのが204年で、220年頃子供がまだ幼かった、と言うことは下手したらまだ30代だったのではなかろうか。
もし彼が士燮並みの長寿であったならば、魏との関係、そして日本と中国との関わりもまた大きく変わっていたかもしれんのう。そんなとこで今日は話を閉めようかのう。
よし、それでは戻るとするかな。
張郃さん、お疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。