さて、今回は公孫淵の息子である公孫脩の紹介じゃな。字や生年は不明。没年は238年じゃが、かなり若かったのではなかろうか。
さて、それでは公孫淵の息子の公孫脩の紹介じゃな。
どうも、張郃だ。上でも書いているが、確かに公孫淵は公孫康が亡くなった時まだ幼かったとある。公孫康は220年には亡くなっているのが確かだが、実際にはその数年前であろう。その時幼かったということは・・・。
仮に220年段階でまだ公孫淵が13~4歳だったとすると、公孫脩が生まれるのは更に数年後、238年時点ではまだ15歳も行かないぐらいの年齢ではなかろうか。
もっと早い年代で公孫康が亡くなった、とは考えられないでしょうか?
ちょっと考え難いな。公孫淵は228年に叔父の公孫恭から位を奪っているが、もし220年頃成人していたのであれば、もっと早くに行動を起こしていたであろう。『傅子』によると、側室の子の公孫淵は優れた才能を持っていた、とある。
つまり彼が成人し、力を発揮できるまで本人も周囲も待っていた、それが228年であった、と言うことじゃな。公孫脩は司馬懿に攻められ、城が陥落しそうになった時に父と共に数百の騎兵で包囲を突破し、逃亡したが最後は捕まり、父と共に斬られた、とのことじゃ。
能力評価
さて、それでは各項目ごとに評価理由を見ていくとしようかのう。
軍事
軍事に関しては恐らく若年であったと思うが、騎馬を乗りこなし、魏志『公孫度伝』によると、公孫脩は父と共に司馬懿の大軍の敷く包囲を突破し、東南に逃亡した、とあるんじゃ。この事から少し軍事は高めの評価としたんじゃよ。
もっと成長し、ちゃんと政治感覚を身に着けていたら、と思うと少々惜しい話だが、こればかりは仕方あるまい、父の罪に対し、子が免れることはまず不可能だからな。
統率・知謀・政治
公孫脩に関しては、上記の軍事行動以外にほとんど記述がないんじゃ。そのため統率から政治に関しての評価は抑え目とさせてもらったぞい。
政治が父より高かったのは師匠なりに、公孫淵にもせめてこれぐらいの政治があれば、と言う願望が具現化した感じなんでしょうか。変にバランスとりたがる方ですからね。
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簡単解説
こうやって天舞さんの能力を見ると、軍事は少し高く評価しているのは共通なんですね。
まあ実際それぐらいしか記録がないから、どうしてもそこに焦点を当てた評価になるのであろう。微妙に政治が高いのはお主の言う通りで、妙な調整能力のようなものが働いているのだろう。
親子で組ませれば多少政治が高くなって、使いやすくなる、とか考えそうですからね。
まあ実際のところは公孫淵の政治感覚が欠如して低かった、と言うだけだろうがな。優れた武人であったとしても、君主である以上政治感覚がでたらめではいけない、と言うことの好例だな。
そういうことじゃな。公孫脩の政治が高いのではなく、単に公孫淵の政治の評価が辛い、と言うだけの話じゃ。実際、公孫脩の政治も公孫淵に比べればマシと言う程度で、特段高い評価ではないからのう。
何にしても可能性のある若い命が失われていくというのは残念な話じゃ。と言ったところで今日は話を閉めようかのう。
よし、それでは俺も戻るとするかな。
張郃さん、お疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。