さて、今回は烏丸の楼班の紹介じゃな。彼は遼西郡の烏丸単于であった丘力居の息子で、彼が亡くなった時は幼少であったため、遼西の烏丸は蹋頓が代理で率いておったんじゃ。後に楼班が成人すると蘇僕延の手によって単于に持ち上げられたんじゃよ。
さて、今回は楼班の人物紹介じゃな。彼は成人して遼西郡の烏丸単于だったんじゃが。しかし最後は残念な終わり方をしたようじゃな。
どうも、張郃だ。彼は蹋頓と共に曹丞相と戦って敗れ、遼東に逃げ込んだところで公孫淵に斬られてしまったからな。
史書を見ると公孫瓚と袁紹が争っている最中は、まだ蹋頓が袁紹と交渉をしていたようなので、200年頃でまだ20歳になるかどうかだったのですかね。
そうだな、計算すると207年でも恐らくまだ30手前ではなかろうか。かなり若くして亡くなったのは無念であったろうな。
戦場に出ている身故、ある程度の覚悟はあったじゃろうがのう。さて、それでは楼班について見ていくとしようかのう。
能力評価
さて、それでは各項目ごとに評価理由を見ていくとしようかのう。
軍事
魏志『烏丸伝』を見ると蘇僕延の意向があったとはいえ、年若いにも関わらず蹋頓を差し置いて単于になれていることから、軍事能力は一定以上のものがあったと判断し、高めの評価としたんじゃよ。
実力的には蹋頓に敵わんのだろうが、彼の対抗馬として担ぎ上げられたことから一定の評価を得た、と言う感じだな。
統率・知謀・政治
その一方で曹操との戦争に敗れ、遼東に逃げるも公孫康によって斬られたことは少々お粗末であり、年が若く未熟であったことから、軍事以外の能力は少し抑え目の評価としたんじゃ。
今まで出てきた他の単于と比べて少し能力が抑えめになっているのは、成長過程で亡くなっているため、能力が伸び切らなかった、と言う感じなのですね。
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簡単解説
蘇僕延は蹋頓に対抗しようという意識が見られますが、蹋頓と楼班の関係はどうだったのでしょうね?
丞相との戦いには共に協力していることから、蹋頓自身がどう考えていたかはともかく、楼班は頼れる従父ぐらいに考えていたのではなかろうか。
そう言えば若くして亡くなった方は、亡くなった時の能力評価も出すと言っていませんでした?
何、オレはその話は聞いていないな。
その辺りは、例えば孫策のように列伝が立てられるほど実績のある人物の場合じゃな。あまり実績がない場合はそこまで大きな影響を及ぼさないからのう。さて、そんなところで今日は終わりじゃよ。
よし、それでは自分も戻るとするかな。
張郃さん、お疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。