さて、今回は軻比能の主な事績を追いかけていくとしようかのう。少ないながらも戦闘経験も多いことから、戦闘実績も載せていくぞい。
さて、今回は軻比能の実績面を見ていこうかのう。彼は活動期間が長いだけに、結構あちこちに顔を出してくるんじゃよ。
どうも、張郃だ。何なら諸葛亮の北伐にも名前が出てくるからな。
そう言えば張郃さんも少し言及していたんでしたっけ。
そうだな、皆諸葛亮の北伐ばかりに意識が言っているが、本当に気を付けないといけないのは北方の異民族だ。我らの時代はうまく弱体化させるのに成功したが、後の時代にやられているからな。
中には曹操が中華に移住させたのが原因みたいに言う人もいますものね。
まあ、曹操の所でも少し書いておるが、異民族の内地への移住は漢代の頃から行われていることじゃし、そもそも漢民族等は複数の部族が支配する地域を広げ、その度に異民族を吸収しておる訳じゃから、無理矢理にもほどがあるじゃろうな。
結局は隋唐もそう言った異民族との血が交わってできた王朝ですものね。
人物紹介
軍事面の実績
対扶羅韓 〇 (桑乾)
対歩度根 〇 (幷州北)
対田銀 〇 (幷州北)
対曹彰 × (代郡)
対素利 △ (幷州西)
対素利 △ (幷州西)
対牽招 × (幷州西)
対田豫 × (幷州西)
対田豫 △ (馬邑)
対牽招 × (幷州西)
対梁習 × (幷州北)
対蘇尚・董弼 〇 (楼班)
対秦朗 × (幷州北)
対歩度根 〇 (幷州北)
14戦 5勝6敗3分
およそ以上になるかのう。トータルの勝率は3割5分とちょっと低いんじゃが、鮮卑族や烏丸族が弱体化した時代にこれだけ長期間戦い続けることができたのが脅威なんじゃよ。
しかも一度は田豫を攻めて包囲したこともあった、と言うのが評価が高くなるかのう。ちなみに、彼がこれだけ中華勢力と戦えたのには理由があるんじゃよ。
主なエピソード
軻比能の強さの秘密
『鮮卑伝』を見ると、袁紹が河北を占有するようになると、中原の人々が多く逃れ、軻比能の下に身を寄せてくるようになったとあるんじゃよ。
するとそうした人々の中に、武器や甲冑の作り方に習熟した人たちがおり、彼らが武器や鎧や楯の作り方を教え、文字も少しは学び知るようになったんじゃよ。
これにより軻比能が部下の兵士を指揮するやり方は、中国の方式に倣い、これによって郡の連弩を高めることに成功したんじゃよ。
拙いながらも中華式の指揮能力を身に着けたことにより、従来の騎馬戦術だけでない戦いができるようになったのだな。
曹彰との戦い
218年、烏丸族が反乱を起こすんじゃが、この時曹操の息子の曹彰指揮官となり、田豫が参謀として計略を仕掛けたんじゃ。曹彰は自身戦闘に加わり、彼の弓の弦の音に応じて倒れるものが続いたんじゃよ。
このように奮戦して散々にこれを打ち破ったんじゃが、実はこの時軻比能が数万の騎兵を引き連れ、形勢を伺っておったんじゃよ。じゃが曹彰のこの勢いに服従を願い出たんじゃよ。
『鮮卑伝』ではこの時軻比能は曹彰に打ち破られたとあったので、恐らく形成を伺う予定が結局攻められ降伏した形になったんじゃと思われるんじゃ。
さすがに曹彰は強い、と言うことですかね。人物紹介の時がちょっと楽しみですね。
諸葛亮との関係
231年、夏、軻比能が同部族人と丁零の大人、児禅を引き連れて幽州に到着し、名馬を献上してきたんじゃよ。じゃがその一方で、『牽招伝』を見ると、諸葛亮の北伐に呼応して中華を攻めるかのような動きも見せているんじゃよ。
相当に強かな人物と言えるじゃろうな。231年と言うと、『漢晋春秋』によると、張郃殿が司馬懿と異民族との対応で兵の配置を少し進言した時でもあるんじゃな。
諸葛亮と軻比能の位置ははるか遠いように見えるが、幷州西部におったとすると、南がもう雍州じゃからな。彼らの行動範囲を考えると、警戒するのは当然の話なんじゃ。さて、軻比能についてはここまでじゃな。次もまたよろしく頼むぞい。
↓ バナーをクリックしてくれるとうれしいぞい