今回は載胡阿狼泥と言う人物の紹介じゃな。彼は歩度根の部落の大人であったんじゃが、秦朗が反乱した軻比能等の討伐に赴いた際に幷州にやってきて降伏した人物なんじゃよ。
さて、今回は載胡阿狼泥と言う人物の紹介じゃよ。秦朗に降伏した、と言う点は泄帰尼と共通、語尾も「でい」と言う読みは共通なんじゃが、両者に何らかの共通点はあるんじゃろうか。
どうも、張郃だ。別人なのは確かだと思うが、両者の関連性はどうだったかな?
張郃さんは直接彼らのことを見知る機会がなかったのでしたでしょうか。
そう、だな。俺は231年に戦死したが、彼らが反乱を起こして秦朗殿が討伐に赴いたのが233年頃のことだからな。
すいません。そう言えば張郃さんは反乱の前に亡くなられていたんですね。
さて、載胡阿狼泥に関してはこれだけしか記録がないんじゃよ。それでは能力評価を見ていくとしようかのう。
能力評価
さて、それでは各項目ごとに評価理由を見ていくとしようかのう。
軍事・統率・知謀・政治
魏志『明帝紀』によると233年、軻比能が歩度根に働きかけ、同盟を結ぶと、彼らは幷州に侵攻し、略奪を図るようになるんじゃが、秦朗が討伐に向かってくると、彼らは逃げ去るんじゃ。その後、匈奴も反乱するんじゃが、これは胡遵らによって討伐されると、その後載胡阿狼泥は幷州へとやってきて降伏し、秦朗は帰還したとあるんじゃよ。
時系列的には泄帰尼とほぼ同じなのか、少し先に泄帰尼が降伏したのかは分からんな。
ただ、軻比能軍内部も一枚岩ではなかったようですね。泄帰尼等が魏に降伏した後、結局歩度根は軻比能に殺害されてしまったようですから。
↓ バナーをクリックしてくれるとうれしいぞい
簡単解説
軻比能が歩度根を殺害したのは、泄帰尼が裏切ったからですかね。
それもあるだろうし、勢力を伸ばすために歩度根配下を吸収したかった、と言うのもあったかもしれないな。ただそうやって鮮卑族の中でも敵を作ってしまう辺り、檀石槐に及ばない、と言われる所以であろうな。
中華より遠い所の素利とかは軻比能より勢力を持っていて、なおかつ彼らは檀石槐の配下であったわけですものね。
それでも直近の脅威として軻比能は存在し続けていたからな。載胡阿狼泥や泄帰尼がこちらに寝返ってくれたのは、軻比能の勢力を削ると言う意味では大きかったが、それでも尚、軻比能が厄介な相手であったことに変わりはないからな。
最終的に軻比能は王雄の送り込んだ刺客の手に倒れるんじゃが、そう言う手段を使わねばならんかった程、厄介な相手であった訳じゃからな。さて、そんなところで今回はここまでじゃな。
それでは俺も帰るとしよう。次もまたよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。