三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

傅嘏(ふか) 字:蘭石(209~255)その2

さて、今回は傅嘏の主な事績を追いかけていくとしようかのう。彼は戦闘経験がほとんどなく、それ以外のエピソードが中心じゃな。

 

さて、今回は傅嘏の主だったエピソードを見ていこうかのう。才ある彼は47歳と早くに亡くなるが様々な逸話があるんじゃよ。

どうも、張郃だ。傅嘏殿は自分が亡くなって以降に活躍した人物なので興味深いな 

そう言えば張郃さんが亡くなった、231年時点ではまだ20ちょっと過ぎたぐらいですものね。

ならばまずは彼の交友関係について見ていくとしようかのう

人物紹介

主なエピソード

傅嘏の交友関係

魏志『荀彧伝』を見ると、荀彧の末の息子である荀粲はある時都で傅嘏と語り合ったんじゃ。傅嘏は形式論理学が得意であり、荀粲は老荘思想を尊んだことから、基本的な結論は一致しても、言い合いになることもあって、しっくりこない関係だったんじゃ。

じゃが裴徽が双方の間を往来し、心を通じる役を買って出たことから、その内に両社は仲良くなった、と言うんじゃよ。

他に傅嘏は何曾や陳泰、荀粲の兄の荀顗、鍾会の兄の鍾毓と仲が良かったようじゃな。

いずれも魏を代表する名臣たちだな。見る目があると言うことなのか。 

鍾会、夏侯玄との関係

ところがじゃ、ここにきて微妙な人間関係が出てくるんじゃよ。『傅子』によると傅嘏は夏侯玄が交友関係を求めたのを断り、夏侯玄と親しかった荀粲に対して「彼は器量より大きい野心を持ち、現実に通用する才能がありません。」と述べるんじゃ。

その一方で傅嘏は鍾会と親しくしておったんじゃが、これはあきらかに『傅子』の創作じゃろうな。

夏侯玄と鍾会、確かどちらも司馬一族に反抗して亡くなったのでしたよね。

そうだ、だがその反抗の仕方には大きな違いがある。夏侯玄はどちらかと言えば他の人たちが司馬一族を排除しようとしたのに彼の名前を使われ、半ば巻き込まれた形だ。その一方で鍾会は自らが首謀者となり蜀の王となって割拠しようと考えていたわけだな。 

むしろ、鍾会の方がよほど器量より大きい野心を持ち、現実にそぐわないことをやらかした、と言うことですね。巻き込まれた夏侯玄の野心(?)は見抜けるのに、鍾会の野心が見抜けないのはおかしい、と。

そういうことだな。『傅子』は傅玄と言う人物の著述なのだが、傅玄も傅嘏も同じ涼州北地郡を本貫としていることから、何らかの姻戚関係があったと思われる。そのためにこのような世迷言を書いたのであろう。夏侯玄や鍾会との関係も、単に気が合うか合わないか、だけの話だったと思うぞ。 

傅嘏の統治について

これは河南尹になった時の話じゃが、河南は内は帝都を掌握し外は畿内を統治する、天下の中心であり、利益の集まるところでもあるが、悪事の起こるところでもあるんじゃ。さて、傅嘏の二代前の河南尹に劉静と言う人物がおり、彼は非常に細かく厳正に統治をしており、この頃は非常に安定しておったんじゃよ。

魏の名臣、劉馥殿の息子だな。彼も父同様優れた治水の手腕を持っていた。細やかな統治と言うのが、父の遺風を見事に受け継いでいると言えるだろうな。 

じゃが、次に李勝と言う人物が河南尹となると、彼は恒常的な規則を壊し、風通しを良くすることによって一時的に名声を得ることに成功するんじゃ。しかしこれは法の緩みも引き起こすこととなるんじゃ。そこで次に赴任した傅嘏は再度立て直し、李勝の壊したものを繕っていくことに成功するんじゃよ。

彼は劉静ほどは細やかではなかったようじゃが、それでも法律の適用には一貫性があり、彼の統治は安定した、と言うんじゃよ。

さて、二回で終わるつもりであったが、もう少しだけ彼に関しては語りたいので、もう一回続けようかのう。良ければ次もご覧くだされ。

 

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