三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

高光(こうこう) 字:宣茂(?~?)

さて、今回は高柔の息子の一人である高光の紹介じゃな。高柔には名前のはっきりしている息子が3人おるようじゃが、どうやら高光が一番父親の資質を受け継いでおるような感じじゃな。

 

さて、今回は高光の紹介じゃな。魏の名臣である高柔の息子であるが、正史本編にはその名は見えてこんのじゃよ

どうも、張郃だ。彼の記録は魏志『高柔伝』の裴松之注『晋諸侯賛』に載っており、どちらかと言えば晋の時代に活躍した人物であるからな。 

と言うことは264年以降に活躍した人物と言うことなのですね。

高柔殿が263年に90歳で亡くなっていることから、息子達も魏の時代からそれなりの年齢であったと思われ、出仕していたとは思うがな。 

まあ実際、魏の時代はそこまで昇進していなかったじゃろうからな。それでは早速高光について見ていくとしようかのう。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 高光(20歳)  45 30 50 95
 ↓ ↓ ↓  ↓↓
 高光(45歳)  73 57 79 128

 

さて、それでは各項目ごとに評価理由を見ていくとしようかのう。

軍事・統率・知謀

軍事・統率・知謀に関しては『晋諸侯賛』にも特別な事績は何も書かれていないんじゃ。そのためこの3項目は平均程度の評価なんじゃよ。

まあ、父の高柔殿も文治肌の人物だからな。高光もその資質を受け継いだであろうから、この評価は妥当なところであろうな。 

政治

『晋諸侯賛』によると、高光は年少の頃から家業を学び、法律・裁判に明るく熟達していたんじゃ。晋の武帝の時代に黄沙御史となり、御史中丞と同等であった、と言う話なんじゃよ。更に昇進し廷尉代行となり、後には本官となるんじゃな。

兄の高誕は並外れて放埓で、決然たる態度はずば抜けており、高光とは生き方を異にし、高光のことを小さな節義を守る男だと考え、いつも高光のことを軽蔑しておったんじゃが、高光は兄に仕えることますます謹直であった、と言うことなんじゃよ。

最後高光は尚書令の位で亡くなり、司空を追贈された、とあるんじゃよ

家業を学び、法令に詳しくその道で昇進していったことから政治能力を高く評価した、と言うことなのですね。 

 

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簡単解説

『晋諸侯賛』の内容を見ていくに、かなり生真面目な人物だった、と言う印象ですね。

兄の高誕とはだいぶ性格が違うようだが、父の高柔殿もどちらかと言うと生真面目な人物であった。一族の中では高誕の方が異端な存在と言う感じだな。  

確かに上の内容を見ると、高誕は豪放磊落な人物像ですね。

高光は文官の典型例と言った感じの評価であるが、高誕の評価は気になるな。

いや、実際高誕の評価は今もちょっと頭を悩ませておるんじゃ。まあ数日後には照会できると思うので、それまで待ってくだされい。それでは今日は終わるとしようかのう。

よし、それでは俺も帰るとするか。次もまたよろしく頼む。  

張郃さん、お疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。