三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

高柔(こうじゅう) 字:文恵(174~263)その2

さて、今回は高柔の主な事績を追いかけていくとしようかのう。彼は法にまつわるエピソードが多いんじゃが、彼の犯罪者に対する態度はなかなか興味深いものがあるんじゃよ。

 

さて、今回は高柔のいくつかのエピソードを見ていこうかのう。上にも書いているように法に関する話が多い人物じゃな。

どうも、張郃だ。彼は法家でありながら、その考え方は現代に通じるものを持っていたりするな。  

現代に通じる、と言うのはどういうことでしょうか。

例えば現代で同じ犯罪を犯したとしても、その後の態度によっては情状酌量の余地があるであろう。彼もまたそれを取り入れ、時と場合によっては寛大な処置を行ったりしているんじゃよ。 

そう言えば姦吏を許したりしていましたね。

まあ、彼らが反省しておったかは疑問じゃが、きちんと更生したことで後まで処刑しようとしなかったのじゃろうな

人物紹介

主なエピソード

父の遺体引き取り

魏志『高柔伝』によると、彼の父の高靖は蜀郡都尉であったんじゃが、現地で亡くなってしまったんじゃ。

すると、高柔は彼の遺体を引き取りに益州へ向かうんじゃ。この頃の益州は劉焉の所でも少し書いておるが、道路が遮断されておって、行くのも帰るのも大変な土地だったんじゃよ。

しかも戦争により、あちこちで侵略があったという状況だからな、非常に危険なところに飛び込んだと言うことだな。 

しかし、高柔は困難や危険を冒して蜀に赴き遺体を引き取ったんじゃよ。辛苦・悲惨をなめつくし、3年かかってやっと帰還を果たしたんじゃ。

3年て、気が遠くなるような期間がかかっていますね。さすがにスケールが違うと言うか、それだけ道が寸断されていたんでしょうね。

高柔の先見性

丁度曹操張魯討伐に向かおうとした時のことじゃ。この時高柔は次のように諫言するんじゃよ。

「今みだりに大兵を派遣しますと、西方にいる韓遂馬超等は自分たちに対して行動が起こされたと思いこみ、互いに扇動し合って反逆を起こすでありましょう。

先に三輔をお味方につけるべきで、三輔が仮に平定されましたなら、漢中は檄文を伝えるだけで平定できましょう。」

結局馬超たちは反乱を起こした訳ですものね。

まあ、反乱を起こしたら起こしたで、関中を抑えることができるからのう。承知の上で曹操は動いておったようにも思うのう。

また曹操が軍の監察官として盧洪・趙達らを配した時、彼らが不正を行っていることを還元するんじゃよ。

後に実際彼らは不正な利益を受けていたことが発覚し、曹操は彼等を処刑し、高柔に謝っておるんじゃ。

高柔の法に対する姿勢

高柔は法律家、法務官としての仕事が多いんじゃが、単に法に従って処罰を適応するだけの人物でないのはすでに書いた通りじゃが、次のような姿勢を持っておったんじゃよ。

曹操は兵士の逃亡を防ぐため、逃亡した際には刑を重くしたんじゃよ。これに対して、高柔は次のように諫言するんじゃな。

「士卒が軍から逃亡するのは誠に憎むべきことであります。しかしながらひそかに聞くところでは、その中に時々後悔する者がいるとか。

愚見を申せば、その妻子を寛大に扱うのがよろしいかと存じます。一つには賊軍の中に不信の念を起こすことができ、二つにはその帰心を誘うことができるからです。

前の法律のようですと完全にその希望を断ち切ることになります。

しかもむやみにこれ以上重くするとなると、私は今後軍中にある兵士が一人の逃亡者を見ると処刑が自分にまで降りかかってくるとて、連れ立って逃走し、死刑に処すことすらできなくなると心配します。これでは刑を重くしても逃亡を止めるのに役立たず、かえって増やす結果を招くこととなります。」

曹操はこの意見をもっともとし、法律を廃止したんじゃよ。これにより助かったものは多かった、とあるんじゃ。

また、当時の制度では親の死に遭った下役は百日後には皆役務に就くことになっておったんじゃ。

じゃがある人物が重病を理由に免除を申し出たんじゃ。上層部は怒ってすぐに逮捕し、取り調べさせるんじゃが、高柔は彼に会って、たいそうやつれはっているのを確認すると、上奏して寛大な処置をとるようにと具申したんじゃよ。

法に厳しいだけでなく、きちんと情勢や実情を把握した上で判断する辺り、見事な対応ではないか。 

厳格な法務官

上のような姿勢があるとは言え、法を蔑ろにしたわけではないんじゃよ。

魏志『高柔伝』によると、文帝が以前から嫌っていた鮑勛を法を曲げて処刑しようとしたんじゃ。じゃが高柔は法を盾に、あくまで勅命に従わなかったんじゃよ。

また、公孫晃が弟の公孫淵が反乱することについて度々陳述していたことに対して、本来なら反逆者の同類だから処刑は免れないが、公孫晃の陳述が事実であれば、その死を許してやるべきで、仮にもそのような発言がなかったならば、即刻市場で斬刑に処すべきです。

とあくまでも事実が同であったかを厳正に確認し、そのうえで法に従い刑を執行すべき、と主張したんじゃよ

事実関係が曖昧な状態で中途半端な処置は行わない、と言う強い意志が感じられますね。

恐らくそう言うことじゃろうな。他にもこの手の逸話が高柔にはゴロゴロあるんじゃが、さすがに量が多いので。すべては書けんが、最終的に高柔は司空、司徒、大尉の三公すべてを歴任し、魏の重鎮として中央に座すんじゃよ。

さてそんなところで高柔の紹介は終了じゃな。良ければ次もまたよろしくお願いしますぞい。

 

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