さて、今回は趙雲の紹介じゃな。彼に関しては演義での大活躍が有名なんじゃが、正史だとびっくりするぐらい何も書かれておらんのじゃ。正史における彼の事跡とはどんなものか、見ていくとしよう。
さて、今回は趙雲の紹介じゃな。彼は関羽や張飛のような義兄弟と言う訳ではないのだが、劉備陣営以外は考え難いことから、ここで紹介させてもらうんじゃよ。
演義とはそれほど大きなギャップがあるのでしょうか。正史でも活躍の記録はあるのですよね?
蜀志『趙雲伝』には裴松之注として『趙雲別伝』として多く記録が残っており、演義の活躍は大体ここから引用しているのだ。だが、正史本文と整合性の合わない部分も多く『趙雲別伝』の内容をそのまま鵜吞みにするわけにはいかないだろうな。
そんなに違いがあるのですか。一度比較させていただきたいですね。
それでは、今回は特別として、正史本文のみの記述がどの程度かを見ていくとしようかのう。その上で次の回で能力評価を示し、更に別伝の主な追加記述がどんなものか、切り分けて見ていくとしようかのう。
人物紹介
若き日の趙雲
趙雲は字を子龍と言い、常山郡真定県の人なんじゃよ。
元公孫瓚の配下であったが、公孫瓚が劉備を派遣して田楷を助けて袁紹を防がせた時、趙雲は随行することとなり、劉備の主騎となったんじゃ。
若い頃の趙雲の紹介はこれで終わりだな。次はいきなり長坂まで時は進むぞ。
文醜との戦いも当然ですがなかったのですね。
荊州時代
劉備が曹操に当陽県の長阪まで追撃され、妻子を捨てて南方へ逃走した時、趙雲が身に幼子(劉禅)を抱き、甘夫人(劉禅の母)を保護したことにより、皆危機を免れたんじゃよ。
この功績によって趙雲は牙門将軍に昇進した、とあるんじゃ。そして劉備が益州に入国すると、趙雲は荊州に留まったんじゃ。
さあ、ここから後半戦、益州攻略に移るぞ。
えっ、ちょっ、早すぎませんか?
益州攻略そして晩年
劉備は葭萌から引き返して劉璋を攻撃し、諸葛亮を召し寄せた。諸葛亮は趙雲と張飛らを率いて共に長江を遡って西上し、郡県を平定したんじゃよ。
江州に到着すると、趙雲に別の川を通って江陽に上り、諸葛亮と成都で落ち合うことを命じたんじゃな。
これにて劉備時代は終わり、いよいよ晩年だな。
こうやって見ると、残っている記録は本当に少ないのですね。
223年、恐らく劉禅が即位したタイミングじゃと思うが、この時に趙雲は中護軍・征南将軍になり、永昌亭侯に封じられるんじゃよ。
更に昇進して鎮東将軍となるが、227年には諸葛亮に従い、漢中に駐留するんじゃ。
翌年諸葛亮は出兵し、斜谷街道を通ると宣伝したんじゃよ。
曹真は大軍を派遣してこれに当たらせたんじゃな。諸葛亮は趙雲と鄧芝に命じて曹真の相手をさせておき、自身は祁山を攻撃したんじゃよ。
趙雲たちの軍が弱小であったのに対して敵は強力だったので敗北したが、しかし軍兵をとりまとめて守りを固めたので大敗には至らなかったんじゃよ。
じゃが軍が撤退すると鎮軍将軍に降格となったんじゃな。そして229年逝去したんじゃよ。
少々駆け足になったが、蜀志『趙雲伝』のほぼすべての記述を網羅するとこれだけになるのだ。
注釈を除くと随分と記述量が少なくなるのですね。これは確かに評価がとても難しそうです。
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簡単解説
実際師匠はそれぐらいの評価にするつもりなんでしょうか。
どうだろうな。長阪での活躍や益州攻略などでの実績から軍事は間違いなく高いと思うが。
それ以外の項目の評価が気になりますね。
実際軍を率いている描写も少なく、どちらかと言えば護衛隊長的な動きが目立つ。魏で言うなら許褚殿や典韋殿に近い働きが多いとお主の師匠は思っているのではないかな。
そうじゃな、ちょっと意外に思う人が出るかもしれんが、この正史ベースでの評価を出してみるとしようかのう。さて、今回はここまでじゃな。次もよろしく頼みますぞい。
よし、それでは俺も帰るとするか。次もまたよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。