さて、今回は『趙雲別伝』の内容について見ていくとしようかのう。そして自分なりにちと疑問に思うことを書いていこうと思うんじゃよ。
さて、今回は『趙雲別伝』の内容について見ていくとしようかのう。
どうも、張郃だ。雲別伝は下手したら本分よりも分量があるからな。
そうだな、演義における趙雲のエピソードのほとんどが雲別伝からの引用だな。
そうじゃな、それでは早速『趙雲別伝』について見ていくとしようかのう。
人物紹介
若き日の趙雲
趙雲の出身は常山郡真定県の人なのは既に書いている通りじゃ。『趙雲別伝』によると郷里の郡から推挙され、官民の義勇兵を率いて公孫瓚の下へ行った、とあるんじゃ。
そもそもこれがおかしい。郷里の郡の推挙を受けて、なぜ幽州へ赴くと言うのだ。それに趙雲は「我が州の意見は仁政を行う方に従う、ということです。」と言っているが、袁紹より公孫瓚の方が仁政を敷いていた、とはどう考えても思えないな。
公孫瓚の行動を考えると、逆に趙雲の判断力が間違っている、と言うことにしかならないですよね。正史の公孫瓚はどちらかと言えば勇猛な武人であって仁君ではない訳ですからね。
ちなみに、この時趙雲は兄の喪に服するために故郷に戻ることになったんじゃが、この兄と言うのが韓馥配下であった趙浮ではないか、と言う可能性も考えられるんじゃな。
名が「浮」と「雲」同じ趙姓で、趙浮も恐らく冀州出身。しかも彼は袁紹の受け入れを拒否して撃退しようと進言している。
事実かは分かりませんが、趙浮が亡くなったであろう時期とも符合している、面白い説ですね。
荊州時代
荊州時代、長阪の活躍の後、趙雲は江南平定に従い、偏将軍に任ぜられ桂陽太守を兼務し、趙範と交代した、とあるんじゃ。
ここもおかしな部分があるな。まず本文の方では長阪の後に趙雲は牙門将軍に任じられている。立派な将軍職だ。偏将軍は副将軍格だからこれでは降格人事になってしまう。
それと調べましたが、この時桂陽の統治は諸葛亮が行っているみたいです。そうすると趙雲の太守と言うのもおかしくなってしまいますね。
趙範は兄嫁を趙雲に娶らせようとした人物だな。そもそも同姓婚が儒教ではタブー視されていたのだから、趙雲の対応は極めて常識的な話でしかない。
それと調べましたが、この時桂陽の統治は諸葛亮が行っているみたいです。そうすると趙雲の太守と言うのもおかしくなってしまいますね。
劉備が益州に入った際、孫権が孫夫人を連れて帰ろうとし、劉禅を一緒に連れていこうとしたのを張飛と共に阻止した、と言う逸話もあるんじゃが、さすがに張飛と趙雲二枚を並べるのは大げさすぎると思えるんじゃよ。
また夏侯蘭を捕まえて法律に明るいことから推挙した、と言うのもこの時期じゃな。推挙はしたものの、以後は適度な距離を保ち、自ら彼には近づこうとしなかった、とあるのも『趙雲別伝』の記述じゃな 。
まだもう少しあるんじゃが、一旦はここで切り上げるとしようかのう。
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