さて、今回は劉備の子である劉永の紹介じゃな。彼は劉備の子孫の中では多少の逸話を持つ人物だったりするんじゃよ。
さて、今回は劉永の紹介じゃな。劉備の子であり、演義でも出てきている人物なんじゃよ。
どうも、張郃だ。彼は確か魯王に任じられていたんだったな。
魯国と言うとどの辺りでしょうか。益州にはないですよね?
魯国は予州の北東の辺りだな。当然実質的にその地を領有しているだけであるから、名前だけの王だな。
うむ、それでは劉永について見ていくとしようかのう。
能力評価
さて、それでは各項目ごとに評価を見ていくとしようかのう。
軍事・統率・知謀・政治
蜀志『劉永伝』を見ると魯王に任命した時の任命書には次のようにあるんじゃよ。
「少子永よ。この青き土を受けよ。朕は大業を継承したが、古代の例に則り、汝の国を建て、東土に封じるによって亀山・蒙山(魯の国境にある山)を支配して、代々藩国たれ。
ああ、朕の詔勅を慎めや。そもそもかの魯の国は、少しく変化させれば道徳に到達する地であり、(聖人)の教化は現に行き渡っている。
人々は徳を好み、代々美風を伝えている。王は確固とした心で礼に従い、汝の官民を安んぜよ。(さすれば天は)汝の祭祀を受け、良しとするであろう。それこれを敬めよ。」
魯の地と言うと孔子の出た地であるな。だからこそ、ことさら徳を重視したような内容になっているのであろう。
こういう文章って誰が考えるのでしょうかね。
この時は許靖が遣わされたとあるんじゃ。彼はいろいろ言われておるが優秀な学者でもあることから、こう言う古典から文章を作り上げるのは得意なのではないかな。
なるほど、こう言う内容を恐らく遵守した清廉な人物だからこそ、統率(魅力)を高めにした、と言うことか。軍事がそれなりに高いのは晋に降った際、奉車都尉に任じられているからかな。
ちょっと待ってください、清廉だ、と言うのはどういう判断からでしょうか。
これは宦官の黄皓を劉永は憎んでいたことからじゃな。蜀滅亡の責任全てを黄皓に押し付けることはできんが、彼が権力を持ったことが一因であったのは間違いないんじゃ。その彼と敵対したことで、劉永は讒言されて10年以上、朝廷の謁見を許されなかった、とあるんじゃよ。
なるほど、黄皓に権力を持たせるのは危険と言う判断力から知謀を高めに、逆に政争で黄皓に敗れ、朝廷から追い出されたことで政治は少し抑え目にした、と言うことですね。
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簡単解説
魅力(師匠ですと統率)が高いのはどの作品でも共通なのですね。
まあ主の師匠は軍事と知謀が高めで、他の2作品は政治が高い、と言う違いはあるがな。
黄皓を憎んでいた、と言うことから比較的客観的で正常な判断ができていた、と思えますね。
そうだな、もしかしたら子たちの中では劉備に近い資質の持ち主であったかもしれんな。
まあこれだけの記述から、すべてを判断するのは難しいがのう。さて、今日はこれで終わりじゃな。次もよろしく頼むぞい。
よし、それでは俺も帰るとするか。
張郃さん、お疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。