さて、今回は劉輯の紹介じゃな。劉理の息子の一人であり、劉胤の弟に当たるんじゃ。彼は紆余曲折もあって劉理の跡を継ぐことになるんじゃよ。
さて、今回は劉輯の紹介じゃな。上でも書いているように劉理の息子じゃな。
どうも、張郃だ。元々劉理の安平王の王位は劉胤が継いでおり、劉輯は武邑侯と別に封ぜられていたんだな。
それが劉理の跡を継ぐことになった、と言うことは劉胤が若くして亡くなってしまったことが原因ですか?確か256年に亡くなっているんですよね。
そうだ、一応劉胤には息子の劉承がいて、彼が王位を継いだのだが、257年に亡くなっているようなのだ。そして261年に劉輯が王位に就いた、と言うことだな。
劉承とかはまだ幼子だったのではないかのう。どちらにしても劉理は病弱で若死にしたのか、それが息子と孫にも遺伝した、と言う感じかのう。
能力評価
さて、それでは各項目ごとに評価を見ていくとしようかのう。
軍事・統率・知謀・政治
彼に関しては蜀志『劉理伝』に安平王に任じた際の詔勅が載っているんじゃよ。
「安平王は先帝の任命によるものであった。三代が早死にし、国の跡継ぎが絶えてしまった。朕はそのために心を痛ませている。よって武邑侯劉輯に王位を継がせる。」
更に264年、劉禅と共に洛陽に移った時は奉車都尉に任じられ、郷侯に封じられたんじゃ。
ふむ、軍事が高い理由は、都尉に任じられたことが理由かと思ったが、劉理の病弱とかを引き継がなかった、と言うことも理由の一つか。
健康体であったから、父よりも長く生き、洛陽でそれなりの役職にもつけた、と言うことですか。
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簡単解説
そう言えば武邑侯の「武」の字も軍事を高くした理由にはなりませんか。
いや、武邑は県名であろうから、さすがにそんな安直なことはやらないだろう、なあ?
(ぎくっ)ももも、もちろん、そんな安易な理由で軍事を高くしたりする訳なかろう。張郃殿のいった理由が全てじゃよ。
(じー)なるほど、結構安直に決めた訳ですねw
ぬぬぬ、お主も相変わらず、変なところで人の心を見抜くヤツじゃのう。と、いやいや、まあそんなところで劉輯の紹介はおしまいじゃ。次もまたよろしく頼むぞい。
動揺しすぎだ。少しは落ち着くのだな。さて、それでは俺も帰るとするか。次もよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。こんな師匠ですいません。次もまたよろしくお願いします。