三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

劉禅(りゅうぜん) 字:公嗣(207~271)その2

さて、今回は劉禅の側面について見ていくとしようかのう。そして自分なりの解釈をしていこうかと思うんじゃよ。

 

さて、今回は劉禅に関するいくつかのエピソードについて見ていくとしようかのう

どうも、張郃だ。劉禅も長期政権だった割には逸話が少ない人物だな。 

どうしても臣下の方が目立つ感じになっちゃっていますものね。

とは言え、前回紹介した李邈の発言に怒り彼を処刑したような話もあるのだろう。 

そうじゃな、それでは早速劉禅について見ていくとしようかのう。

人物紹介 

人買いに買われていた?

さて、蜀志『後主伝』裴松之注の『魏略』によると、劉備が小沛にいたころ、曹操の突然の襲撃に家族を見捨てて荊州に逃げた、と言うのがあるんじゃよ。

この当時劉禅は5~6歳であったが、ひそかに逃れ、人について西のかた漢中に潜入し人に売り飛ばされた、とあるんじゃよ。

劉備が小沛にいたと言うことは恐らく袁紹殿の指示で曹丞相の後方をかく乱しようとした時のことであろう、となると200年頃となるから劉禅の年齢とつじつまが合わなくなるな。 

劉禅って長阪で趙雲に救われた時点でまだ赤子のはずですからね。200年に5~6歳と言うことは195年頃の生まれになってしまいますね。 

その後何やかんやあって、劉備の下に帰ることができるんじゃが、そこでも少し正史本文とは違った様相を示しておるんじゃ。

劉禅劉備の下に戻ってから、劉備諸葛亮を太子太傅にして、劉禅が即位すると諸葛亮を丞相として諸事を委任し、諸葛亮に向かって

「政治は葛氏にまかせ、祭祀は私が行う。」

と言ったんじゃよ。じゃが諸葛亮劉備の時代にすでに丞相じゃし、太子太傅になんぞついていないはずなんじゃよなあ。

上の劉禅の発言は今の日本の皇室と議会のような在り方だな。事実かどうかは別にして、蜀は政治と祭祀を切り分け、執り行っていたのは間違いないだろう。 

陳祇に対する寵愛

さて、蜀は代々諸葛亮蒋琬費禕と優れた宰相によって国を保ってきておったんじゃが、費禕の次にその役目を担ったのは、姜維ではなく陳祇と言う人物だったんじゃ。

彼は多芸で様々な技術を習得しており、費禕も非常に彼のことを高く評価していたんじゃよ。陳祇は姜維の北伐をバックアップし、宮廷内もうまく切り盛りしていたことから、劉禅も非常に彼を評価し寵愛しておったんじゃな。

彼が亡くなった際、劉禅は痛惜し言葉を発する度に涙を流した、とあるんじゃよ。

そこで詔を下して次のように述べたんじゃ。

「陳祇は職務を統べてから12年、性質の柔和さ・善良さは世の手本であり、仕事を処理する能力と厳しさには節度があった。すべてが所を得てなごみ、あらゆるものに利益を与え、様々な功績はまことに顕著である。

生命は永久に続くものではなく、朕はここに哀悼の意を表することとなった。そもそも世にありし時に良い評判があるならば、死して後に美しき諡を付け加えるものだ。忠侯と諡号を授ける。」

劉禅にしてはずいぶんと思い切った発言、と言う印象だな。 

ここまで陳祇のことについて肩入れしているのって、ちょっとらしくないですよね。 

陳祇は上でも書いている通り、誰とでも人付き合いができ、性格も柔和だった、というのが劉禅にとっても波長があったのではなかろうか。 

幕末のある人物との類似性

さてここで話は大きく変わるんじゃが、日本の江戸時代、幕末に毛利敬親と言う人物がいたんじゃよ。名前から分かる通り幕末の長州藩藩主だった人物じゃ。

長州藩と言うと倒幕の中心を担った藩であり、桂小五郎高杉晋作など有名な人物は非常に多いと思うんじゃが、この藩主についてとなると案外詳しくは知らない人も多いのではなかろうか。

彼は臣下の意見に対してはいつも、「うん、そうせい。」と言うのみで基本部下任せ、と言うこともあって、そうせい侯と言うあだ名をつけられ、優れた藩主ではない、と言う評価も一部ではあって幕末の四賢侯にも入っておらんかったんじゃ。

基本部下任せなところは劉禅にも通じるところだな。 

確かにあまり自分の強固な意見が見えてこないと言う意味では近いものがありますね。 

じゃがこの「うん、そうせい」と言うのも藩内の意見が時に攘夷だ佐幕だところころ変わることで、あまり自身の意見を強硬に主張すると、身を危うくする、と判断してのことだったようなんじゃよ。

この辺りは洛陽に移住した後、宴会における司馬昭とのやり取りで蜀のことを懐かしく思わないと言ったり、道化っぽいことをやった劉禅ももしかしたら、と思わせられるな。 

なるほど、師匠は劉禅毛利敬親を重ねていらっしゃるのですね。 

毛利敬親に関しては『Wikipedia』によると清水義範と言う小説家が 「この殿様がもっと馬鹿でも、もっと利口でも、長州藩は途中でつぶれていたであろう。無能な名君、と言う不思議な人も歴史の中には存在するということだ。」

無能な名君、と言う言葉は劉禅にもぴったり当てはまると思うんじゃよ。だからこそ彼は40年に渡り、蜀漢の皇帝であり続けることができたのではなかろうか。。

さて、そんなところで劉禅の人物紹介はここまでじゃな。次も良ければご覧くだされい。 

 

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