三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

劉琮(りゅうそう) 字:不明(?~262)

さて、今回は劉琮の紹介じゃな。名前を見てあれっと思った人もいるじゃろう。その通り、劉表の息子の劉琮と同姓同名の人物なんじゃよ。

 

さて、今回は劉琮の紹介じゃな。上でも書いているように劉表の息子の劉琮とは別人なんじゃよ

どうも、張郃だ。彼は劉禅の三男に当たる人物だな。 

劉禅がどのような意図でこの名前にしたのかは少し気になるところですね。

元々劉禅の息子には劉璿や劉瓚のように「王偏」が付いている人物が多い。劉琮もその過程で名づけられただけで、劉表の息子を意識してのものではあるまい。

「琮」と言う言葉は玉器のことを指している。言葉通り玉のような器の人物になってほしい、と言う願いが込められているのではないかな。 

なるほどのう、それでは劉琮について見ていくとしようかのう。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 劉琮(20歳)  30 50 45 40
 ↓ ↓ ↓ 
 劉琮(45歳)  57 79 73 68

 

さて、それでは各項目ごとに評価を見ていくとしようかのう。

軍事・統率・知謀・政治

正史本伝では蜀志『後主伝』に252年、劉琮を西河王に立てられたこと、262年に亡くなったとあるんじゃ。じゃが裴松之注『蜀世譜』には蜀が降伏した時、劉諶は自殺したが、他の者は皆内地(洛陽)へ移住した、と書いているんじゃよ。恐らく既に劉琮が亡くなっていたことを書き漏らしておったんじゃろうな。

西河王になったこと以外は何も記録がないことから、評価としては全体的に抑えめなのだな。 

劉備劉禅の人物像から統率が一番高くなった、と言う感じでしょうか。 

 

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簡単解説

劉表の息子の方と名前が被るせいか、他の作品には出てこないようですね。

そうだな、それにしても劉禅の息子も事績のはっきりしない人物が多いのだな。  

でも考えてみれば、今の日本の皇室も、別に政治政策に関わったり、軍事に携わったりする訳じゃありあせんからね。これが当たり前なのかもしれません。

そうじゃな。それに飛びぬけた才能の持ち主や、上皇様のようにハゼ類の研究とか実績を残しておれば、ちゃんと記録にも残るじゃろうしな。

さて、そんなところで今回は終わりじゃな。次もよろしく頼むぞい。

それでは俺も帰るとするか。次もよろしく頼む。  

張郃さん、お疲れさまでした。次もまたよろしくお願いします。