さて、今回は劉封の紹介じゃな。養子として劉備の下にやってきたが、後に色々あって処刑されることとなる悲劇の人物じゃな。それもむしろ有能であるがゆえに起きた悲劇と言うことじゃから、悲しい話じゃ。
さて、今回は劉封の紹介じゃな。劉備の養子であったことが悲劇的な最期を迎える要因となってしまった人物じゃな。
どうも、張郃だ。戦に負けた程度であれば、処刑なんぞ普通はされなかったであろうにな。
劉封が劉備の養子であった、と言うことから後継者問題とかが起こるかも、と言うことだったのでしょうか。
諸葛亮が、劉備亡き後に劉封を制御できなくなるかもしれないと言うことで、処刑を進言している。この辺りの諸葛亮は少し暗黒面が顔を覗かせているな。
とは言え、蜀国内が劉封派と劉禅派に分かれて争うことになったら大変じゃないですか。
諸葛亮もその辺りは大いに悩んだと思うんじゃがな。まあじゃが法正の行いを止めることができなかったり、諸葛亮とて品行方正で完璧な人間、と言う訳ではないだけの話じゃからな。さて劉封について見ていくとしよう。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
軍事・統率
軍事については蜀志『劉封伝』によると、劉備の蜀遠征のおり、二十歳ほどであったが武芸を身に着け、気力は人に立ち勝っていたので、兵を率いて諸葛亮や張飛等とともに長江を遡って西上し、行く先々で勝利を収めた、とあるんじゃよ。
また、魏に降った孟達に敗れ、成都に戻ると、諸葛亮は劉封が剛勇なため劉備亡き後、制御し難くなると判断し、彼を除くように劉備に進言するんじゃよ。
武芸に優れ軍権を持たせられる実力があったことから軍事と統率を高めとし、ただ敗北もあることから統率は少し抑え目とした、と言うことだな。
知謀・政治
魏に降伏した孟達は劉封に「親子と言っても血肉を分けた間柄でもないのに権勢のある地位を占め」と直接の血縁でないのに官位が高いことを指摘し、更に劉禅が皇太子になっていることから「漢中王(劉備)は足下(劉封)に対しての疑念を生じている。~中略~恐らく側近の家来たちは必ず漢中王の耳に讒言を吹き込むでありましょう。」と劉封の立場が非常に危険であることを進言しておるんじゃが、劉封はこれを聞かず、成都に帰還してしまったんじゃよ。
この辺りの判断の甘さが知謀と政治が抑えめになった要因と言ったところか。とは言えまだ24~5の若者にそこまでを求めるのは酷な話であろう。
それまでがどちらかと言えば武将として腕を磨いていたでしょうから、ちょっと不憫ですね。
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簡単解説
そう言えば劉封は羅侯の寇氏の息子と書いていますが、寇氏と言うのはどう言った人物がいるのでしょうか。
ふむ、羅侯と言うのは長沙郡羅県に封じられたと言うことであろう。後漢に寇恂と言う功臣がおり、恐らくその末裔、と言うことであろうな。ただまあ父親の名が分からないと言うことは後漢末の頃には没落していたか、寇氏の中でも傍系の方であったと言うことかな。
劉氏の甥とも書いていますが、母親が劉氏出身の人物、と言うことでしょうか。
恐らくそうであろうな、母方が劉氏であることから異性養子も比較的問題なく行けた、と言うことであろうな。
劉封が諸葛亮の信任を得て、蜀軍の主力武将となった世界線も見てみたかったのう。武将としては非常に優秀だったと思うんじゃよ。と言ったとこで、今日は終わろうかのう。次もよろしく頼むぞい。
よし、それでは俺も帰るとするか。
張郃さん、お疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。