さて、今回は劉理の紹介じゃな。彼は劉禅の異母弟であり、また彼の兄の劉永とも母親を異にしておったようなんじゃ。それにしても郭嘉と同じ字なんじゃな。
どうも、張郃だ。兄の劉永はまだ逸話があったが、彼と比べて劉理は若死にしたためか、逸話もあまりないようだな。
蜀志『劉理伝』を見ると梁王に任じられていますね。劉永は魯王ですが、魯国も梁国も豫州に属している国なんですね。
次に230年に安平王に封じられているが、安平は冀州だな。同時期兄の劉永も甘陵王に封じられているが、こちらも冀州だな。
豫州も冀州も劉備の出身地ではありませんし、何故これらの地に封じられたのかは良く分かりませんね。
まあ、その辺りについての謎は多いが、とりあえず劉理について見ていくとしようかのう。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
軍事・統率・知謀・政治
蜀志『劉理伝』には梁王に封じられた時の任命書が書いてあるんじゃよ。
「少子理よ、朕は漢の皇統を受け継ぎ、つつしんで天命に従い、典範にのっとって汝の国を東方に建て、漢の藩国とする。そもそもかの梁の地は、王域に近い国であって、民衆は教化に馴れており、礼を以て指導しやすい所である。
往きて汝の心を尽くし、人々をなつけ安んじ、とこしえに汝の国を保て。王、それこれを敬めよ。」
劉理の記録はこれぐらいじゃのう。
244年に亡くなっていることから、体があまり丈夫でなかったことが伺え、そのため運治は抑えめの評価となっているのだな。
他二も記録がないことから、全体的に抑えめなのですね。
↓ バナーをクリックしてくれるとうれしいぞい
簡単解説
どの作品も魅力、統率と言った感じの能力が評価が高いのは同じですね。
その辺りも劉備の息子と言うことによる補正がかかっているであろうからな。
それにしても劉禅、劉永とも母親が違うとありますが、誰だったんでしょうね。
そこはさすがに分からんな。史書に名前が残っている皇后は二人だが、他にも夫人がいたのは確か、と言うことだな。
まあこういうのはどこかに記録が残っていそうじゃがのう。さて、劉理の紹介はここまでじゃな。劉備一族の紹介もあと少しじゃ。次もよろしく頼むぞい。
よし、それでは俺も帰るとするか。
張郃さん、お疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。