さて、今回は張融の紹介じゃな。彼は張燕の孫、張方の息子に当たる人物なんじゃよ。
さて、今回は張融の紹介じゃな。彼は張燕の息子で昨日紹介した張方の息子に当たる訳じゃな。
どうも、張郃だ。張燕殿の系譜を少し調べてみたが、魏から晋にかけて順調に名門としての地位を固めておったようだな。
張融は記録が結構残っているのですか?
いや、張融自体にはさほど記録は残っていないが、彼の孫に張林と言う人物がおり、彼は司馬倫の下で一時期権勢を握っておったようだ。そして、彼の一族は当時でも名族であったらしいことが晋書から伺えるのだ。
そう言うことじゃな。張融に関して記録は残っていないが、権勢を握れるような地盤固めをやっておったことを、少し評価項目として考慮しようと思うんじゃよ。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
軍事・統率・知謀・政治
魏志『張燕伝』によると張方が亡くなった後は張融が後を継いだ、とあるんじゃ。そして魏の時代からの有力家臣として、晋の時代には名門一族として、一時的とは言え、それなりに権勢を握ったようじゃな。
元々張燕殿の能力は軍事が高かったが、名門となっていくことで政治力が徐々に高まっていっている形だな。張林は将軍号も得ているようだから、父の張融も軍事はそれなりの評価になっていると言うことか。
記録は残っていませんが、順調に権力を保ち生き残っていった部分を評価していると言うことですね。
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簡単解説
色々書かれていますが、評価自体は父の張方と同じぐらいなのですね。
まあ記録がない以上、極端に高くすることはできまい。
そう言えば知謀が低めなのは何か理由があるのでしょうか。
実は息子の張林は権勢を握りながらも、内輪揉めで己の身を滅ぼしているのだ。その辺りの立ち回りに自業自得な部分があったので、それを父の知謀にも反映させたのであろう。
張郃殿、ビンゴじゃ。それから偶然とは言え、張燕殿も元々知謀は低めであったことから、その流れを生かしたような感じでもあるんじゃがな。さて、それでは今日はこの辺りで終わろうかのう。次もよろしく頼むぞい。
よし、それでは俺も帰るとするか。
張郃さん、お疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。