さて、今回から新たな勢力の後継者候補たちじゃな。そして夏侯一族と言うことは、そう、曹一族の後継者達と言うことじゃな。ここからは長いので、のんびり見ていってくだされい。
さて、今回は夏侯威の紹介じゃな。夏侯淵の四男に当たる人物じゃな。
どうも、張郃だ。夏侯淵殿の所は大所帯だからな。把握しているだけでも7人男子がいる。
演義とかでも何人か名前が出てきていたと思いますが、夏侯淵の息子たちは優秀なんでしょうか?
夏侯覇がちょっと目立っているが、実はどの子も夏侯淵殿や夏侯覇に負けず、非常に優れた息子がいるぞ。
と言うことは今日の夏侯覇も優れた人物、と言うことですか。
そうじゃな。目立つ実績はないが大物だったことは伺えるんじゃ。それでは早速見ていくとしよう。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
統率・政治
魏志『夏侯淵伝』の裴松之注『世語』によると、夏侯威は男気のある人物であったらしいんじゃな。そして、彼は荊州・兗州の刺史を歴任した、とあるんじゃよ。
男気があり、人望があった、と言うことから統率(魅力)の高さへと反映させていると言うことだな。そして刺史を歴任していると言うことから政治も評価している、と言うことか。
軍事・知謀
そんな夏侯威じゃが、少し変わったエピソードがあるんじゃよ。魏志『朱建平伝』に載っておるんじゃが、この朱建平と言う人物、人相見を良くする人物で、夏侯威に対し
「あなたは49歳で州の牧の位に就かれますが、その時きっとご災難がありましょう。その災いを切り抜けられれば、お年は70歳まで、位は公補(天子の後見役)にまで登ることになります。」
と言ったんじゃな。
そして実際に夏侯威は49歳の年の12月上旬に病気にかかったんじゃよ。朱建平の言葉を思い出し、遺言や葬送のための道具を整え、全て怠りなく準備させておったんじゃ。
じゃが、下旬になって病気は快方に向かい、ほとんど全快に近くなったんじゃよ。
そこで30日の陽が西に傾くころ、主だった役人たちを招いて酒席を設けて言ったんじゃ。
「俺が苦しんだ病気もようやく良くなり、明日の鶏鳴の時(夜明け)になれば、歳はもう50だ。朱建平の戒めた時期も、確かに無事に過ごせたのだ。」
こ、これは・・・フラグですね。
そう言うことじゃな。酒宴が果てて、寝に就いた時に病気が再発して、夜半に亡くなった、とあるんじゃ。
50になってから酒宴を開けばあるいは、とは思うが、少しせっかちなところはまさに夏侯淵殿の息子だな。なるほど、知謀が少し抑えめになっているのはそのためか。
↓ バナーをクリックしてくれるとうれしいぞい
簡単解説
三国志14の方は武人タイプの評価ですが、天舞三国志は文官寄りですね
お主の師匠はどちらかと言うと天舞に近い評価だな。
そうですね、三国志14の評価はどちらかと言うと演義準拠の評価と言った感じですね。
演義だと出てこない人物も多いから、武将の数が足りないこともある。特に後半は国土に対して武将の数が足りていない。そのため軍事が高めとなっているのであろう。
正史準拠ならそう言う調整は必要ないからのう。とは言え夏侯淵の息子と言うことで、微妙に軍事を高くしているかのう。と言ったとこで、今日は終わろうかのう。次もよろしく頼むぞい。
よし、それでは俺も帰るとするか。
張郃さん、お疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。