さて、今回夏侯淵の五男、夏侯栄の紹介じゃな。彼は見ればわかるようにわずか13歳で亡くなってしまったのじゃが、記録から見ると若くして亡くなったのが非常に惜しまれる人物なんじゃよ。
さて、今回は夏侯栄の紹介じゃな。彼は・・・
彼は、才知あふれる非常に有望な若者であった。それだけにあそこで亡くなったのは非常に惜しかった。
219年に亡くなって、しかも張郃さんがあそこでと言うことは・・・もしかして?
察しの通り、漢中攻防戦の時だ。彼は夏侯淵殿の敗北の時に、彼を逃がそうとする側近たちに、自分だけが助かる訳にはいかないと・・・。
彼も戦死した、と言うことですか、張郃さんも近くにいたのでしたね。
漢中攻防のことを中心に述べているが、夏侯栄に関しては他にも優れた事績があるんじゃよ。能力評価と共に見ていくとしようかのう。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
知謀
魏志『夏侯淵伝』の裴松之注『世語』によると、従孫の夏侯湛は夏侯栄のことを次のように述べておるんじゃよ。
「夏侯栄は幼い時から聡明で、七歳で文章を書くことができた。一日に千字書物を読み、目を通せばたちまち覚えた。
文帝がその評判を聞いて彼を招いた。文帝の下には賓客が百人以上おり、一人一人名刺を差し出した。名刺にはその人の本籍地、氏名が書かれており、世に言う爵里刺であった。客がこれを差し示し、夏侯栄にちらっと見せた後で、彼ら全部と話をさせたが、彼は顔と名前を一人も間違えなかった。」
実際に会ってみると、非常に利発な子であった。十三歳で亡くなっているから四十五歳まで成長した時の評価値には届いていない訳だが、もし順調に成長して実績を積んでおれば、間違いなく上の数値、いや、自分をも超える評価を得て、魏国の柱石となっていたであろう。
軍事・統率・政治
そんな夏侯栄に関しては漢中で次のような逸話もあるんじゃ。同じく『世語』の夏侯湛は次のように語っているんじゃよ。
「漢中で夏侯淵が敗北を喫した時、夏侯栄は十三歳であった。側近の者たちは、彼を抱えて逃げようとしたが、承知せず『主君や肉親が危ない目に遭っているのに、どうして助かることができようぞ。』と言い、自ら剣を振り戦い、戦死した。」
自分だけ逃げて生き延びるのをヨシとはしなかったのですね。
この判断だけは・・・生き延びてこそ汚名をそそぐ機会も持てた、と思うのだがな。この点だけは残念だ。
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簡単解説
三国志14の方は師匠に近い評価になっていますね。能力的に低めなのは若くして亡くなったから、と言うことでしょうか。
そうだな、お主の師匠の評価も、あくまでも四十五歳付近まで生き延びた場合に最高値になるような評価にしている。二十歳よりももっと若く亡くなっているから、実際の数値はもっと低いのであろうな。
若き天才とかもいますけど、でもここで出てくる有能な人たちって、皆何がしかそう言う常人離れした才能を持っている人が多いですものね。
まあ、そう言うことだな。素質はあってもそれを開花させる前に散ってしまうのはあり得る話だ。
十三歳じゃから二十歳の評価から5~10低くなった数値が妥当と言ったところかのう。ワシも彼の事跡を見て、もし無事に成長していたら、と思ってしまったところじゃ。直に面識のあったであろう張郃殿はもっとだったじゃろうな。さて、今日はこれで終わりじゃな。次もよろしく頼むぞい。
・・・よし、それでは俺も帰るとするか。
張郃さん、今日はお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。