さて、今回は夏侯玄の紹介じゃな。魏志『夏侯尚伝』に付伝されており、夏侯尚の息子に当たる人物じゃが、裴松之は父以上の高い評価をしておった程なんじゃよ。
さて、今回は夏侯玄の紹介じゃな。個人的には彼が皇族最後の砦であったように思えるんじゃ。
気位が高かった側面はあったが、優れた才知は司馬懿・司馬師と比べても決して負けていなかったように思うな。
司馬父子と比べて、それだけ評価高いと言うのは凄いんじゃないですか。気になりますね。
しかし、夏侯玄のことをすべて語ろうとすると結構時間がかかるのではないか。
そうじゃな、夏侯玄に関しては、2、3回に分けて紹介しようと思うんじゃ。まずは能力評価と大まかな事績について見ていくとしようかのう。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
知謀・政治
魏志『夏侯尚伝』の裴松之注『世語』によると、夏侯玄は世間から人を見る目が合った、と言うんじゃよ。
さらに彼は多くの州や郡を治め、法律を制定し、教化を施したんじゃが、これは現代(『世語』作者の時代)に至るまで全て後世の手本になっている、とまで書かれているんじゃ。
また、司馬懿が当時の問題について諮問したところ、夏侯玄は
・九品中正法の問題点と解決法を述べ
・重複した役職を排除し
・服飾も質素を旨とすべき
と言った感じの的確な指摘を提案するんじゃ。
じゃが司馬懿はこれらを実行するには賢明で能力のある人の出現を待たなければならない、と拒絶するんじゃよ。
じゃがこれに対し夏侯玄は殷の伊尹と周の周公旦が殷と周の典則を正そうとしないのと同じと、司馬懿の態度に納得しない姿勢を見せるんじゃよ。
政治的才能は恐らく司馬懿を超えるものがあったと言えるだろうな。
更に言うなら後に司馬懿は九品中正法を夏侯玄の指摘とは逆の施策を行い、晋では低い身分で能力のある人物は出世できなくなってしまうと言う、歪な政治構造になってしまい、夏侯玄の指摘が正しかったことを逆説的に証明してしまっている。
軍事・統率
魏志『夏侯尚伝』の裴松之注『世語』の記述じゃが、夏侯玄は中護軍になると、武官を抜擢し登用したが、軍門に集う武士は俊英、豪傑ばかりとなった、とあるんじゃ。
軍事的には目立つ実績はないモノの、後に征西将軍・仮節都督雍・涼州諸軍事となっておることから、軍事と統率も最低限の評価はした、と言うことじゃな。
軍事的には役職に就いた以外は実績はないのですね。
蜀侵攻作戦をやったこともあるが、この時はうまくいかず、総大将である曹爽に進言して退却させたりしている程度だな。
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簡単解説
あら、天舞三国志は意外なほど低いですね。何ででしょうか。
反乱騒ぎに巻き込まれて処刑されただけ、と言う感じで評価をしてしまったのか。どちらにしても少し納得のいかない評価ではあるな。
三国志14の方は師匠の評価にかなり近いですね。
とは言え三国志14は一部の武将が極端に全能力が高かったりするからな。政治だけ高くてもそれなりの評価にしかならんであろう。
そうじゃな。ワシの方では荀彧にも負けないぐらい、トップに限りなく近い評価じゃな。こういう人物がぽろぽろ出てくれると面白いんじゃよ。さて、今日はこれで終わりじゃな。次は夏侯玄についてもう少し突っ込んだ話を見ていって、能力を裏付ける補完としようかのう。
よし、それでは俺も帰るとするか。
張郃さん、今日はお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。