三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

夏侯玄(かこうげん) 字:太初(208~254)その4

さて、今回は夏侯玄の他の逸話とその最後について見ていくとしようかのう。彼の死と共に魏から晋への流れが加速していく、彼はその岐路に立っておった人物なんじゃよ。

 

さて、今回は夏侯玄について残りのエピソードと、その最後について見ていくとしようかのう

どうも、張郃だ。いよいよか、彼の死と共に皇族を守れる人間がいなくなったのは確かだな。 

提案する内容は古代の聖天子を理想としながら、現代に合わせるように考えているのもなかなかですよね。

彼の最後は何というか、巻き込まれるような形だったからな、それが残念だ。 

確かに、あれで亡くなることになるとは、と言う感じじゃったからのう。それでは見ていくとしようかのう。

人物紹介 

夏侯玄の論文

さて、先に挙げた提言の他に質素倹約に努め、奢侈を控えて余計な支出を抑えるように提案も行っておるんじゃが、最終的に司馬懿はこの意見を言を左右にして拒否するんじゃな。

それより以前に、夏侯玄は『楽毅論』『張良論』『本無肉刑論』を著したことがあったんじゃが、その文辞は筋が通って深遠で、どれも皆世間に広く伝わっていた、と言うことなんじゃよ。

非常に優れた才を持っていた夏侯玄じゃが、彼と親しかった曹爽が司馬懿によって処刑されると流れが大きく変わってくるんじゃよ。

これからが終わりの始まり、と言うことだな。

曹爽処刑後の処遇

曹爽が司馬懿によって処刑された後、朝廷は夏侯玄を召し寄せて大鴻臚とし、数年後太常に転任させたんじゃよ。

この頃の逸話として、魏志『夏侯尚伝』の裴松之注、『魏氏春秋』によると、この曹爽処刑などの件を受けて、夏侯淵の次男の夏侯覇は蜀に出奔しようとした時に、夏侯玄に呼びかけ、行動を共にするつもりだったんじゃ。

じゃが夏侯玄は次のように拒否するんじゃ。

「どうして生きながらえて、敵国の居候になれようか。」

そして都に帰還するんじゃが、司馬懿がみまかった時に、許允が夏侯玄に向かって

「もう心配ない。」

と言ったところ、夏侯玄はため息をついていうんじゃよ。

「子宗よ、君は何と見通しのきかないことか。あの人(司馬懿)はまだしも、先代以来付き合っている家の後輩として、わしを扱ってくれたが、子元(司馬師)や子上(司馬昭)はわしを大目に見てはくれまい。」

もう既に自分の運命を悟りながら、死地に赴いていた、と言うことですか。何だかやるせないですね。 

そうじゃな、それでは夏侯玄の最後について、言及していこうかのう

曹爽処刑後の処遇

さて、このような処遇に対してある人物が裏で動いていたんじゃよ。当時中書令であった李豊は司馬師に信任されていたんじゃが、実はこっそりと夏侯玄に心を寄せていたんじゃ。

しかも李豊は息子が公主を娶るなど、皇族とも血縁関係を持っており、そう言ったことも司馬師より夏侯玄に傾倒する要因となったんではないかのう。

さて、この謀議についてじゃが、一応夏侯玄も加担していた、と言うことになっておるんじゃが、いろんな資料を見ても、情報は受けていた可能性はあるものの夏侯玄自身が積極的に加担した形跡は見られないんじゃ。

ふむ、どちらかと言うと加担したことに仕立て上げられた可能性がある、と言うことか。

そう言うことじゃな。魏志『夏侯尚伝』裴松之注『世語』によると、夏侯玄は廷尉の下に連れてこられた時、一切供述書を書こうとはしなかった、とあるんじゃよ。自身は無関係、とでも言うかのようにのう。

そして廷尉の鍾毓が自ら夏侯玄の取り調べに当たったところ、夏侯玄はきっとなって、鍾毓をなじり 

「わしにどんな供述すべきことがあると言うのか。君は令史(三公の部下)としてわしの取り調べに当たっているのだから、君こそわしのために供述書を作り給え。」

鍾毓は夏侯玄が名士であり、また節操が高くて屈服させられないと判断し、取り調べが完了すると、夜の間に供述書を書き、事実と符合するよう按配し、涙を流しながら夏侯玄に見せたんじゃよ。

夏侯玄はじっと眺め、ただうなずいただけだった、とのことじゃな。

『雑語』によるとこの時、鍾毓の弟の鍾会がなれなれしく夏侯玄を友達扱いしようとするんじゃが、夏侯玄はぴしゃりと言うんじゃ。

「鍾君、どうしてそんなに押しつけがましいのだ。」

太字の「事実と符合するように~」、と言うのが要はでっち上げを示唆している、と言うことですね。

そう言うことじゃな。そんな夏侯玄じゃが、東の市場での斬刑に臨んでも、顔色一つ変えず、泰然自若としていた、とあるんじゃよ。

かくて46歳にして、夏侯玄は刑場の露となった訳じゃな 

この手の話はいくらでもあることだが、これが中華の歴史の大きな分岐点であった、と考えると残念でならないな。 

それは・・・なるほど、司馬一族の台頭が、結果的に異民族の介入による大混乱の時代、五胡十六国に繋がる訳じゃからのう。そう考えると中華史においても大きなターニングポイントとなる訳じゃな。

さて、少し長かったが夏侯玄についてはここまでじゃな。退屈だった方もおるかもしれんが、次からはまた新しい人物の紹介じゃ。良ければまた見てくだされ。 

 

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