三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

夏侯佐(かこうさ) 字:不明(?~266)

さて、今回夏侯惇の孫である夏侯佐について見ていくとしようかのう。彼は正史本伝には名前が見えてこない人物なんじゃよ。

 

さて、少し日が経ってしまったが、今回は夏侯佐と言う人物の紹介じゃな。

彼は、夏侯惇殿の孫に当たる人物だな。だが、謎が多そうだな。 

何か記録におかしな部分があるのですか?

うむ、魏志夏侯惇伝』を見ると、夏侯惇の後は夏侯充が継ぐんじゃが、正史本伝だと夏侯充が亡くなると子の夏侯廙が継ぎ、夏侯廙が逝去するとその子の夏侯劭が継いだ、とあるが、裴松之注の『晋陽秋』によると、夏侯惇の孫の夏侯佐が逝去し、後継ぎが途絶えた、とあるのだ。 

本伝で言うと夏侯惇の孫の夏侯廙と夏侯佐が世代的に被っているのですね。どちらかの記録が間違っている・・・もしくは同一人物だった、と言う可能性はないのですか?

いや、夏侯劭は夏侯廙の孫であることは確からしいのだが、『晋陽秋』で夏侯劭と夏侯佐は親子関係ではないようなんじゃよ。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 夏侯佐(20歳)  55 65 40 50
 ↓ ↓ ↓ 
 夏侯佐(45歳)  84 95 68 79

 

さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。

軍事・統率・知謀・政治

魏志夏侯惇伝』の裴松之注『晋陽秋』によると、266年に夏侯惇の孫の高安卿公夏侯佐が逝去し、後継ぎは絶えた、とあるんじゃよそこで詔勅が出され

夏侯惇は魏の元勲であり、その勲功は竹帛に記されている。昔庭堅(舜の臣)が子孫の祭祀を受けなかっただけでも悲しみ悼む人物がいたのだ。

まして朕は魏王朝から禅譲を受けたのであるから、どうしてその功臣を粗略に扱うことができようか。夏侯惇の近親である夏侯劭を選んで爵位を与えよ。」

と述べられておるんじゃよ

確かに夏侯劭と夏侯佐が親子の関係であるなら、そのまま後を継ぐだけで良いはずだが、ここでは近親としかなっていないのだな。 

確かに親子ではなさそうですね。夏侯佐と夏侯廙は兄弟だったのかな。先に夏侯廙が亡くなり、夏侯佐が後を継いだのが、夏侯佐もすぐに亡くなり、結局夏侯廙の息子の夏侯劭が継ぐことになったとかですかね。 

266年に亡くなっていると言うことは、若死だった可能性は考えられるな。 

 

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簡単解説

能力的にはちょうど夏侯惇をスケールダウンしたような感じですね。

記録がない場合の常套手段だな。夏侯惇殿は統率が一番高く、軍事と政治がそれに続くような感じだ。  

そう言えば夏侯淵の方は優秀な息子が多い印象が強いですが、夏侯惇の方は逆にあまり目立った子供がいないですね。

まあ、夏侯楙のように悪目立ちする人物はいるが、確かにそう考えると、そこまで評価の高い人物は多くないな。

この辺りはちょっと不思議な感じじゃな。目立たないだけで優秀な人物もおったとは思うんじゃがなぁ。さて、夏侯佐についてはこの辺りで終わりじゃな。

よし、それでは俺も帰るとしよう。  

張郃さん、今日はお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。