さて、今回は夏侯称の紹介じゃな。夏侯淵の三男に当たる人物であり、逸話は少ないながらも、結構強烈な個性を残した人物なんじゃよ。十八歳の若さで亡くなったのが惜しい人物じゃな。
さて、今回は夏侯称の紹介じゃな。上でも書いているように夏侯淵の三男じゃな。
若くして亡くなったが、覇気や才能は一番夏侯淵殿に近い、ある面では超えていたかもしれない人物だな。本当に十八歳で亡くなったのが惜しまれるな。
18歳て、随分若いのですね。それでも結構目立つ逸話があるのですね。
若い時から目立っていたからな。そのまま生き続けていれば魏の柱石になれたかもしれないな。
そうじゃな、それでは早速夏侯称のことについて見ていくとしようかのう。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
軍事・統率
魏志『夏侯淵伝』の裴松之注『世語』を見ると、従孫の夏侯湛は夏侯称について次のように述べているんじゃ。
夏侯称は幼時から、子供たちを集め、その大将になるのが好きであった。遊ぶときには必ず戦争ごっこをし、規律を破った者がいると、そのたびに厳しく鞭打ったが、誰も思い切って逆らおうとはしなかった。
十六歳の時、夏侯淵が狩猟に連れていき、逃げ走る虎を見かけた時、夏侯称は馬を疾駆させてその後を追い始めたんじゃ。やめろと夏侯淵が制止するのも止まらず、一矢でこれを射倒した、と言うんじゃよ。
「わしはお前を手に入れたぞ」
と喜んだんじゃよ。
戦ごっこは所詮は遊びかもしれんが、その頃から厳しい規律で統制でき、皆が従う大将としての器量があった、ということだな。
また、虎を追いかける勇気、一矢で射殺す技量、武芸も大したものだ。軍事と統率が高いのも納得だな。
知謀・政治
さて夏侯淵はこんな夏侯称に対してひそかに見どころがあると考え『項羽伝』や兵書を読ませようとしたが、夏侯称はうんと言わず
「できることがあれば、自分勝手にやるだけさ。どうして人から学ぶことができようか。」と言い放ったんじゃよ。
彼は曹丕とは身分や地位を超えた対等な交際をしており、宴会の度ごとに彼の意気は一座の人々を圧倒し、弁舌の士も彼を言い負かすことはできなかったので、当時社会的名声のあった者の多くは彼と付き合った、とあるんじゃよ。
勉学をしていたわけではなさそうですが、地頭は良かったように思いますね。
その辺りが知謀の高さにもつながっているのであろうな、また弁舌の士が付き合いたくなると言うのも、彼の言葉に力だけでない説得力のようなものがあったためであろう。
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簡単解説
天舞三国志でも軍事能力高いのですね。
逸話が少ないながらも、上のように結構強烈な話が多いからな。
あ、でも十八歳で亡くなっている、と言うことは実際には軍事とかが167まで上昇することはないんですね。
そうだな初期能力の時点で亡くなっている、と言うことだな。
それがうまく生き延びることができれば、と言うロマンの話じゃな、四十五歳の能力は。さて、今回はここまでじゃな。
よし、それでは俺も帰るとするか。
張郃さん、今日はお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。