さて、今回は魏のラストエンペラーである曹奐について、ちょっと気になる部分の紹介じゃな。これは司馬昭と曹操の比較にもなるんじゃよ。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は曹奐の気になる部分の紹介じゃな。
どうも張郃だ。上で司馬昭と曹丞相の比較を行うと言うことは帝位に至る過程の比較と言うことだな。
なるほど禅譲の前段階の両者を比較してみようと言うことですね。
事実上古代の聖王の事例を除けば初めての禅譲劇だからな。曹丞相がどのような過程で道を示し、司馬昭がそれをどのように参考にしたのか。この比較は案外面白いのではないか。
そうじゃな、それではそれぞれの道程を見ていくとしようかのう。
人物紹介
司馬昭に対する許可
魏志『陳留王紀』によると265年5月の詔勅では以下のことが許可されているんじゃよ。
・冠に十二の玉飾りをつけることを許可する
・天子の旗を立てて出入りの際にふれる先払いと通行禁止の措置を取る
・金根車(豪華なお召し車)に乗ることを許可する
・六頭立ての馬に引かせ、五時車(五つの季節、春・夏・季夏・秋・冬の色を塗った車)を副車として備えることを許可する
・旄頭(天子の旗につけるから牛の飾り)・雲罕を設置することを許可する
・音楽には八佾(天子の舞楽、八人八列になって舞う)の舞楽を演じることを許可する
・宮殿に鐘を吊るす台を設置することを命じる
・王妃を王后に、世子を太子に昇進させ、王子、王女、王孫の爵号を旧例に従って改めさせた
265年5月の詔勅の際に、一気にいろいろな許可が降りている感じなのですね。
そうだな、それだけすでに禅譲の手順と言うのが整っていたと言うことであろう。それでは曹丞相についての方を見ていこうか。
曹操に対する許可
・214年3月、魏公の位を諸侯王の上に置き、改めて金璽・赤紱(璽につける赤いひも)・遠遊冠を授けた
・同年12月、旄頭を付けることを許可する
・同年12月、宮殿には鐘虚(鐘を吊り下げる台)を設けることを許可する
・215年9月、魏公に対し独断で諸侯・太守・国相を任命する権限を与えた
・216年5月、魏公の爵位を昇進させて魏王とした
・217年4月、天子の旗をかかげ、出入りには警蹕(先ばらいのいましめの声)を称することを許可する
・同年10月、十二の旒(冠の前後に垂れ下げる飾り玉、天子は十二ある)を付けた冠を付けることを許可する
・同年10月、金根車に乗ることを許可する
・同年10月、六頭立ての馬に引かせ、五時車(五つの季節の色を塗った車)を副車として備えることを許可する
・同年10月、五官中郎将の曹丕を魏の太子とする
・219年7月、夫人の卞氏を王后に取り立てた
司馬昭が265年にまとめてやったことのほとんどは、曹丞相が5年の歳月をかけていたことを踏襲していたのが良くわかるな。
それだけ時間をかけたのはやはりいろいろ難しいことだった、と言うことですか。
そうじゃな。結果を知っている今の我々にとっては安直に皇帝への道を曹操は歩んで居った、と思いがちじゃが、あの時代禅譲を成功させた王はいないからのう。
曹操は娘を献帝の妃としていますし、もしかして藤原氏の摂関政治のようなことも考えていたのでしょうか。
そこまでは分からんが、過去禅譲での成功例がない以上、保険は掛けたかったのではなかろうか。さて、そんなところで今回はここまでじゃな。
それでは俺も帰るとするか。次もまたよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。皆さまもまたよろしくお願いいたしますね。
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