三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

曹據(そうきょ) 字:不明(?~?)

さて、今回は曹據の紹介じゃな。この辺りの人物も詳しく知っている人物はそんなにいないのではなかろうか。彼はどんな人物だったか、見ていくとしよう。

 

案内人 

くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。

弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は当然忘れている)。

張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。 

四方山話 

さて、今回は曹據の紹介じゃな。彼も曹沖・曹宇と母が同じなんじゃよ。名は「拠」と書かれることもある人物じゃな。

天才と呼ばれた曹沖は有名ですけど、曹宇と曹據はあまり知られていないですよね。

まあ、立場的には結構大きな事件が発生しそうになってはいるが、未遂で終わっているからな。それはおいおい語られていくであろう。 

むむ、少し気になる物言いですね。

まあ実現はしておらんし、そこまで大きなことではないがのう。それでは早速見ていくとしようかのう。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 曹據(20歳)  40 70 45 35
 ↓ ↓ ↓  ↓↓
 曹據(45歳)  68 101 73 62

 

さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。

統率

魏志『斉王紀』の裴松之注『魏略』を見ると、司馬昭が斉王を廃そうとした時、その後継候補として考えていたのが、実は曹據だったんじゃよ。さすがにこれには皇太后が抵抗を示し、最終的には曹髦になったんじゃが、曹據であった場合、歴史はどう推移したか、気になるところじゃのう。

なるほど、実際の才能に関しては分からないですが、皇帝としての貫目があるのでは、と言うことで統率を少し高くした、と言うことですね。 

軍事・知謀・政治

ちなみに魏志『彭城王據伝』を見ると

211年 范陽侯

217年 宛侯

221年 宛公(昇進)

222年 章陵王

222年 義陽王

222年? 彭城王

222年? 済陰王

確かにここまで見ると文帝の時代は凄い頻繁に国替えされているのですね。 

そういうことじゃな。さて、更にここで224年の詔勅を見てみようかのう。

「過去の王者は国家を建てると、時代の状況に応じて制度を作った。漢の高祖は秦が設置した郡を増加し、光武帝の時代になると天下が消耗していたために、郡や県を省いたり合併したりした。

現在をその時と比較すると、いよいよ追いつかなくなっている。よって諸王の領有を改め、全て県王とする。」

ここからの曹據は224年に定陶県王に任じられるんじゃ。そこから232年、明帝の時代に諸王の領有を改め、全て郡国をもって藩国としたんじゃよ。

ここで曹據は再び、彭城王となったんじゃよ。

じゃが、ここで少し問題が起こってしまう。以前曹楷のところで起こした問題を曹據もやらかしてしまうんじゃよ。

 

魏志『彭城王據伝』によると237年に曹據は勝手に人を中尚方の下にやって、禁止されている器物を作ったかどで、県二千戸を削られた、とあるんじゃ。

考えなしに行動を行った、と言うことで政治と知謀を少し抑え目にした、と言うことだな。 

それにしてもびっくりするぐらい同じことをやっているんですね。何か流行りでもあったのでしょうか。 

 

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簡単解説

実際どんな器物を造らせようとしたのか、気になりますね。

さすがにこの部分の知識は自分も欠落しているからな。さすがに分からんな。  

それにしても魏の親族も色々とトラブルを起こしているのですね。

皇族の一員であるにも関わらず、常に監視の目が光り、抑圧された生活を送っていることも関係しているのかもしれんのう。さて、今回はここまでじゃな。良ければ次もまたよろしく頼むぞい。

よし、それでは俺も帰るとするか。  

張郃さん、今日はお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。