さて、今回紹介するのは孫暠じゃな。既に一部で名前が出ておるが、彼は孫策が暗殺され、孫権が後を継いだ際に彼に従わず、会稽を支配しようともくろんでいた人物だったんじゃよ。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は孫暠についての紹介じゃな。既に孫権のところで書いているので、記憶に新しい人も多いのではなかろうか。
孫権に対して反抗的な動きをしていた方ですね。
孫権にとっては従兄弟に当たる人物だからな。この問題は孫権には深いダメージを与えたと思われる。
記録を見ると孫暠の父、孫静が孫権の代に昭義中郎将になった後、官を退いたことが書かれている。
孫暠の起こしたトラブルの責任を取ったのかもしれんのう。さて、孫暠について見ていくとしようかのう。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
軍事・統率・知謀・政治
孫暠は孫静の息子なんじゃが、孫静のところにはほとんど記録が残っていないんじゃよ。
孫策が逝去し、孫権が(その後を継いで)呉の勢力を纏め率いてゆくことになった時の事、定武中郎将の孫暠は孫策の従兄であって、烏程に駐屯しているのであって、配下の軍吏や兵士を達を率いてやってくると、会稽郡を自分のものとしようとした。
会稽郡の役所はこの情報を得ると、民衆を動員して城を固めさせつつ、後継ぎとなった孫権の指示を待ち、その上で使者をやって心得違いを告げ諭した。(『虞翻伝』裴注『呉書』)
虞翻は次のように孫暠を説得した。
「討逆将軍(孫策)様は天寿を全うされることはございませんでした。ただ今、事を取り纏め人々を率いて行くのは孝廉(孫権)様こそふさわしいのです。
私はこの郡の役人や兵士たちすべてと共に城に立てこもり守りを固めておりますが、それは緊急の時にお役に立てるべきこの命を今投げ出して、孝廉さまのために害を除いて差し上げようと願ってのことです。
どうかあなた様には、よくよくご考慮をいただきますように。」
このように言われて、孫暠は引き上げた。(『虞翻伝』裴注『会稽典録』)
ここで虞翻が大活躍するのですね。この虞翻の説得がなければ呉は結構危なかったのかもしれませんね。
荀彧殿と言い、危険な状況を自らの説得により脱っさせることができる人物は鮮やかであり、大したものだな。
↓ バナーをクリックしてくれるとうれしいぞい
簡単解説
そう言えば孫峻は孫暠の孫になるんでしたよね。
そう考えると孫権との因縁が子孫の代に、と言う皮肉な話であるな。
魏や蜀にはほとんど見られなかった親族による内憂が呉にはあった感じですね。
確かに三国で親族による問題が大きかったのは呉ぐらいじゃな。やはり孫堅・孫策が亡くなり、わずか20歳の孫権が後を継がねばならなかったのが、後々まで重くのしかかったんじゃろうなあ。
さて、今日のところはここまでとしておこうかのう。
よし、それでは自分も帰るとしようか。
張郃さんもお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。