さて、今回紹介する人物は孫鄰じゃな、以前紹介している、孫述や孫震の父親に当たる人物で、孫賁の息子じゃな。彼はわずか9歳で父親に代わって豫章太守の任に当たった人物なんじゃよ。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は孫鄰の紹介じゃな。上でも書いている通り、孫賁の息子で彼が亡くなった後、豫章太守になったんじゃよ。
本当に9歳で太守の任を務められたのですか?
さすがにそれは無理だろうな。記録を見ると210年に顧邵(後に呉の丞相となる顧雍の息子)が豫章太守となっている。
それでも20年近く豫章におって反乱鎮圧などで実績を上げていたようじゃな。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
軍事・統率
まずは孫鄰の軍事面や名声について目を向けていこうとしようかのう。
孫鄰は、字を公達と言い、生まれつき鋭敏な頭脳を備えて、若い時から令名があった。(『孫賁伝』裴注『呉書』)
豫章郡にあることがほとんど二十年近くにも及び、(その間)反乱者たちを討ち平らげて、治績を挙げた。
~中略~
孫鄰は夏口・沔中の督に昇進し、威遠将軍となったが、それぞれの職務においてみな立派な手腕を示した。(『孫賁伝』)
まだ若い内からかなりの実績を打ち立てていたのですね。
魏で言うなら異民族討伐や辺境の統治で実績のあった、田豫殿や閻柔殿、鮮于銀・鮮于輔殿らに近い人物と言えるかもしれないな。
知謀・政治
(孫鄰が武昌に召喚された当時)、太常の潘濬が荊州を治めていたのであるが、(零陵郡)重安県の長であった陳留出身の舒燮が罪を犯して獄に繋がれると、潘濬は以前に舒燮を見損なったと思うことがあったことから、彼を法に定めるところに従って処刑してしまおうとした。
多くの者が舒燮のためにとりなしをしたのであるが、潘濬は頑なに気持ちを変えようとしなかった。そうした時、孫鄰が潘濬に言った。
「舒伯膺(舒邵の兄、舒燮は舒邵の子弟)兄弟が、互いに相手をかばって自分が死のうとした時、天下の人々はそれを義ある行動だと思い、美しい談(うるわしいはなし)だといたしました。
仲膺(舒邵)どのもかねて国家のためにその身を捧げたいと志してこられました。
今ここで君(あなた)がその子弟を殺されたりされれば、もし天下が統一され、陛下の車駕が北に行幸されたあかつきには、中原の人々は必ずや仲膺どのの後嗣ぎはどうしているかと尋ねるでありましょうが、尋ねられた者は、潘承明(潘濬)どのが舒燮を殺されたのだと答えることになります。それでよろしいのでしょうか。」
潘濬の気持ちは即座に解け、舒燮はそのために無事で済んだ。(『孫賁伝』)
ちょっとわかり難いですが、舒燮と言う人物を救うために、孫鄰がうまく潘濬と言う人物を説得した、と言うことですよね?
名声の高い舒一族の人物を処刑することで、潘濬の名声にも傷がついてしまう。それを防ぐためのうまい説得の仕方と言うことだな。
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簡単解説
これだけの人物ですが、他の作品には出ていないのですね。
少し意外であったが、考えてみると彼は対外面ではほとんど記録が残っていない。演義にも出ていないことを考えると致し方ないのかもしれんな。
こちらはほとんどの人物を紹介しようとしていることから、そんな状況は関係ないんじゃがのう。さて孫鄰についての紹介はここまでじゃな、良ければ次もよろしく頼むぞい。
それでは今日は自分も帰るとするかな。
張郃さん、今日はお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。