さて、今回は劉磐の紹介じゃな。彼は劉表の従子であり、劉表の荊州支配において重要な立場を担っていたんじゃよ。ほとんど知名度はないが、実は演義でも有名な、とある人物二人とも関係のある人物じゃな。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は劉表の従子である劉磐の紹介じゃな。
従子と言うことは劉虎と同じような立場だったのですか?
近いところではあるようだな。彼も軍を率い県を治めていたようだから、劉表の荊州支配に必要なコマであったのは確かだろう。
また上でも書いているように、劉磐はとある人物たちともかかわりが深い。それが彼の評価にも結び付いていると思うんじゃよ。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
軍事・統率・知謀・政治
劉磐は勇猛さで知られた武将だったんじゃよ。その記述も簡潔ながらなかなかの評価が与えられているようなんじゃな。
(黄忠について)、荊州の牧劉表は彼(黄忠)を中郎将に任じ、劉表の従子の劉磐とともに長沙の攸県を守らせた。(『黄忠伝』)
こんなとこで劉磐と黄忠に繋がりがあるのですね。
そうだ、劉磐が勇猛であったという評判は、配下に黄忠がいたこととも無関係ではないのでは、と思うのだ。
劉表の従子の劉磐は勇猛であって、しばしば艾・西安などの諸県に攻め込んで荒らしまわっていた。孫策は、そこで海昬・建昌近辺の六県を割いて、太史慈を建昌都尉に任じて(六県の統治にあたらせ)、海昬にその役所を置かせると、同時に部将たちを指揮して劉磐の侵攻を食い止めさせた。
劉磐は姿をひそめ、それ以後、侵入して荒らしまわることはなくなった。
~中略~
孫権が呉国を支配するようになると、太史慈には劉磐の進出を抑える力があると言うことで、南方地域の諸般の事の処理を皆彼に預けた。(『太史慈伝』)
なんと、ここで太史慈ですか。しかも劉磐を抑えるためにわざわざあてがわれていた、と言うことは劉磐は強敵として認識されていたのですね。
劉表の一族の中では一番武将としての評価が高かったであろうな。こういう人物はもっと評価されるようになってほしいな。
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簡単解説
師匠と天舞三国志はやはり軍事面の評価が高めですね。
三国志14も武力が高めなのはやはり勇猛である、と言う評判を反映させ手の事であろうな。
劉表一族を支える武勇の士、劉磐の紹介じゃな。さて、今年はもう年末に突入して、また書き込めなくなるので今日が最後じゃな。
今年一年、皆様お疲れ様でした。来年もよろしくお願いいたします。
それではよいお年を