三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

張任(ちょうじん) 字:不明(?~213)

さて、今回は張任の紹介じゃな。字は不明、生年は不明じゃが没年は213年じゃな。彼は演義で有名な人物じゃが、正史ではいったいどんな人物だったんじゃろうかのう。

 

さて、今回は張任の紹介じゃな。

どうも、張郃だ。ふむ、彼も義侠の人として有名な人物だったな。 

演義ではかなりの活躍をしている人ですよね。正史ではどうだったのでしょうか。

ふむ、彼はまた評価の難しそうな人物じゃな。それでは張任について見ていくとしようかのう。

人物紹介

蜀志『先主伝』の裴松之注『益部耆旧伝』によると張任は蜀郡の人で代々貧しい家柄であったんじゃ。若い時から大胆で勇敢、しっかりした意志を持ち、州の役所に勤め従事となったんじゃよ。

さて、時代は劉備益州にて劉璋を攻撃しだした時のことじゃ。

軍を率い黄忠・卓膺らと共に涪に至ったんじゃ。この時に劉璋は諸将をやって涪にて防がせようとしたんじゃが、彼らは皆破れてしまうんじゃよ。その中の一人に張任も入っておったんじゃよ。

彼らは退却して綿竹に立て籠もったんじゃよ。劉璋は更に李厳をやって綿竹の諸軍の総指揮をとらせたんじゃが、李厳は軍勢を引きつれて劉備に降伏してしまうんじゃよ。

そこで張任劉璋の子の劉循と共に雒城の守備についたんじゃよ。

劉備は雒を包囲して攻撃するんじゃが、一年近く経ってもこれを落とすことはできんかったんじゃ。

張任は劉璝と共に精兵を率いる立場であった、と言うことから、かなりの重鎮であったのは確かだな。

ここで張任は軍兵を率いて雁橋に出陣し、戦ったが再び敗北し、張任は生け捕りにされてしまったんじゃ。

劉備張任が忠勇の士と聞いていたので、降伏させようと命令下していたんじゃ。

じゃが張任は激しい声で拒絶したんじゃ。

「老臣は二主に仕えるようなことは絶対にしない。」

そこで劉備張任を殺害したんじゃよ。処刑はしたものの張任の忠勇に劉備は感歎し、彼が亡くなったことを哀惜したんじゃよ。

この辺り曹丞相や劉備は良く似ているな。優れた君主は優秀な人材を追い求めるのはどこも同じだな。

さて、これにより張任の紹介はおしまいじゃな。続けて能力評価と行こうかの。彼はもちろん全作品に登場じゃな。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 張任(20歳)  130 60 30 65
 ↓ ↓ ↓  ↓↓↓
 張任(45歳)  167 90 57 95

 

張任は大胆で勇敢、意志の強い人物で劉璋から精兵を任されるほどであったことから、また張任劉循のおった雒は守りが固く、劉備もそれを抜くのに1年も時間がかかったことから、軍事は高めの評価としたんじゃよ。

じゃが、劉備との戦いでは敗北もしておることから、統率は少し抑え目の評価としておったんじゃよ。

 

三国志14(Max.100)
   統率   武力   知力   政治   魅力 
 張任  85 84 76 59 76

 

天舞~三国志正史~(Max.16)
   武勇   采配   策謀   政治   外交   人徳 
 張任  10 9 5 2 2 7

 

鄭問三國志(Max.30)
   武勇   統率   知謀   政治   健康 
 張任  20 18 16 8 21

 

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雑談ぢゃ

さて、張任の能力評価じゃな。

劉璋政権下で重要な人物であったことから、軍事能力が非常に高いのだな。それにしても董扶の後に張任とはな  

そう言えば姓名順だと張任の方が先になるはずですよね。

う、うむ、実は張任の紹介をし忘れておったんじゃよ、すまんのう。それにしても演義補正かもしれんが、ワシもつい軍事を高めの評価としてしまったかもしれんのう。 

まあ、この辺りは関羽も少し似ている部分があるかもしれんな。関羽も実戦では余り勝っておらん。だが、それでもその名声からお主も高い評価としたのであろう  

さて、張任の紹介はここまでじゃが、如何じゃったろうか。良ければ次もよろしく頼むぞい。

よし、張任の紹介は終わりだな、俺も一旦帰るか。  

張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。