さて、今回から新シリーズ、次代を担う後継者達の紹介じゃな。栄えある第一回目は公孫度の孫に当たり、一族を破滅へと導いてしまった公孫淵の紹介じゃな。それと今回からちとレイアウトを見直してみようと思うんじゃよ。
さて、いよいよ初期には登場しておらんかった人物たちの紹介じゃな。これは大きく二つに分けて「君主の一族」と「その他の在野武将」に分けるぞい。まずは君主の一族からの紹介じゃな。
そうじゃ、それと今回からちょっとレイアウトを変更するとともに、ワシはちょっと裏へ引っ込むこととするぞい。
え、それじゃ誰が人物紹介をするのですか?・・・ま、まさか。
もちろんお主たち二人じゃ。張郃殿が来てからはお主後ろに引っ込んでほとんど顔を出さなくなっておるではないか。必要な資料は用意するのと最初だけ特別にワシも一緒にやっていくぞい。
やれやれ、具体的なことは何も言わずに・・・強引なことだ。それで具体的にはどのような手順になるのだ?
うむ、まずは能力評価からじゃ。あくまでもここは武将の能力を評価しておることから、こちらを主とし、評価の根拠となる史書の記述を従としてみようと思ったんじゃよ。
能力評価
さて、ここは能力を評価するところじゃから、まずは評価を最初に載せ、その根拠となる記述を項目ごとに整理していこうと思うんじゃよ。この辺りはまだ手探り状態じゃな。
軍事
軍事に関してじゃが、魏書『公孫度伝』を見ると、公孫淵が呉と裏で手を結ぼうとしていることに対し、不信を感じた魏は名将の毌丘倹を派遣してきたんじゃ。じゃが公孫淵は遼隧にて迎え撃ち、形勢不利となった毌丘倹は退却した、とあるんじゃよ。
毌丘倹ほどの人物を破った、と言うことから軍事は高めの評価とした、と言うことだな。
統率
同じく魏書『公孫度伝』を見ると、毌丘倹を撃退後、次いで司馬懿が攻めてきた時には同じ守り方をしようとして裏を取られ、逆に撃退され、籠城も長くは持たずあっさり陥落しておるんじゃよ。
圧されると脆くも崩れた、と言うことから統率は軍事ほど高い評価ではないということですね。
知謀
公孫淵は魏呉を天秤にかけ、その時々の都合で片方にいい顔をするんじゃ。孫権はまんまとそれに騙され、使者を送ったりするんじゃが、公孫淵は使者の首を斬って魏に送って、魏に良い顔を使用する程手玉に取っているんじゃよ。ただ、司馬懿の陽動にしてやられたことから、極端に高い評価とはならんかったんじゃ。
どちらかと言えば浅知恵の類だがな。とは言えそれで孫権を騙したことから、一定以上の評価をした、と言ったところか。
政治
知謀で孫権を騙すまでは良いんじゃが、魏と呉どちらつかずの状態がいつまでも通用するはずがない。最後は司馬懿に攻め込まれ、族滅の憂き目に遭うんじゃよ。野望の大きさと行動が伴っておらず、遼東に割拠した公孫氏50年の支配を終焉させたことから、政治はどうしても抑え目とせざるを得んかったのう。
一軍人としてならそれなりに名声を残せたかもしれませんが、身の丈を超える野望を持ってしまったのが、このような悲惨な最後を迎えることになってしまったのですね。
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簡単解説
張郃さん、質問良いでしょうか?毌丘倹は私はあまり知らないのですが、演義だとあまり大したことをやってない印象があるので。
ふむ、確かに演義を読む限りではそのような印象になるのも仕方ないな。だが無能な将が高句麗まで遠征し、都を落とすことまでできるものかな。更に陳寿は彼を激賞している。司馬懿には及ばないかもしれぬが、彼もひとかどの将であるのは確かだ。
それに勝った、と言うことだからあれだけ公孫淵の軍事も高かった、と言うことですね。納得です。
ついでに言えば司馬懿も公孫淵側が塹壕を数十里にも及んで掘って、防備を固めていたから、正面からの攻撃ではなく、陽動作戦を行うようにしたんじゃ。公孫淵自身もなかなかの将であったと言えよう。
(そろそろ良いかのう?)更に言うなら公孫淵は、魏や呉へ送った書簡の記録が多数残っているんじゃよ。これはちょっとある人物を思いさせるのう。
確かに能力も軍事と次いで知謀が高くて、政治が低いところなんかは呂布の能力にちょっと近いですね。
上でもおぬしらが書いておるように、身の丈に合わぬ野望を持たなければ、もっと違った人生になったかもしれん。なまじ有能だったと思われるだけに惜しい話じゃな。
さて、レイアウト変更後の初回と言うことで手探りで作ってみたんじゃが、どんなもんか後で見てみるかのう。それでは今日はこの辺りで終わるぞい。
まあ一回ですっとできるわけではないからな。都度調整していくしかないだろう。それでは俺も戻るぞ。
張郃さん、お疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。