さて、今回は烏丸の率衆王である護留の紹介じゃな。率衆王と言うのはまたどんな役割なのか、この辺りも不明じゃのう。
さて、今回護留の紹介じゃな。率衆王と頭についているんじゃが、これは烏丸の中での役割がもう一つ不明なんじゃよ。
どうも、張郃だ。護留(葉)と言うのもよく分からんな。正式名が護留葉と言うのか、上に書いているように字が葉なのか。ただ寇婁敦と共に毌丘倹に降ったのは間違いないようだな。
と言うことは曹叡の時代の人物と言うことですね?
そうだが、実際のとこ寇婁敦と護留は袁尚が遼東に逃げた際、共に逃亡していた人物なので、実は結構古くから根を張っておった人物なのだ。
まあ、とは言え、袁尚時代以降の話はほとんど残っておらんからのう。それでは早速見ていくとしようかのう。
能力評価
さて、それでは各項目ごとに評価理由を見ていくとしようかのう。
軍事・知謀
魏志『烏丸伝』裴松之注の『魏略』を見ると、袁尚時代に寇婁敦と護留は袁尚に従い遼西に逃亡してきたのであるが、毌丘倹の軍が来ると衆を引き連れて降伏してきた、と言うことなんじゃ。
異民族故軍事能力は元々それなりに高くなるのであろうが、判断力の高さから知謀も高めとしたのだな。寇婁敦は政治が高いことから、それを補うようにしたということか。
統率・政治
統率と政治に関連する記述は特にないが、状況判断から魏に降り、身の安全を確保したことが骨進とは大きく違う、と言うことだじゃな
たしかに政治以外は骨進とよく似ていますが、政治力で大きく差を開けている形になっていますね。
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簡単解説
それにしても護留は寇婁敦に比べると、少し能力が抑え目にされているのですね。
それは恐らく寇婁敦の方が上の立場であったためではないかな。『三国志全人名事典』によると、護留は単于の寇婁敦に率いられて毌丘倹に帰順した、とある。
なるほど、そう言った記述もあると考えると、やはり寇婁敦の方が上のように思えますね。
まあ史書にはこのような書き方にはなっていないが、ただやはり「単于」と言う言葉は「〇〇王」と言うより重い肩書と思えるからな。
そう言うことじゃな。ワシもその辺りの肩書からやはり寇婁敦の方が上だったのではないかと思ったんじゃよ。さて、そんなとこで今日は終わりじゃな。
よし、それでは自分も戻るとするかな。
張郃さん、お疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。