さて、今回紹介するのは馬超じゃな。隴西方面の一雄として君臨し、曹操にも抵抗し、一度は追い詰めたこともある人物、演義では五虎大将軍の一人でもある、超有名人じゃな。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は馬超の紹介じゃな。関張に並ぶ猛将として演義では名を馳せておるが、その勇猛さは正史においても発揮されているようじゃな。
やはり、本来昨日紹介するのは馬超でしたのですね。よくよく考えれば馬岱の次で名前がすぐ出てくる人物って馬超しかいないですからね。
馬超に関しては演義と正史でだいぶ人物像が違うからな。今回はその辺りを掘り下げるのだろう?
そうじゃな。良い悪いは別に、史書における馬超の人物像はきちんと紹介していこうと思うんじゃよ。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
軍事・統率
さて、馬超に関しては記録も多いことから、軍事・統率方面と知謀・政治方面とに分けてみてみるとしようかのう。まずは軍事・統率方面じゃな。
馬騰が入朝してから後、馬超は司隷校尉の督軍従事になって、郭援を討伐した際、飛んできた矢に当たったが、袋でその足を包んで戦い、郭援の首を斬った。(『馬超伝』裴注『典略』)
建安十六年(211年)、馬超は関中の諸将侯選、程銀、李堪、張横、梁興、成宜、馬玩、楊秋、韓遂らあわせて十部隊と共に反乱を起こした。その軍勢は十万で、ともに黄河・潼水を盾に陣営を連ねた。(『馬超伝』裴注『典略』)
(操と潼関で対峙した馬超たちに対し)曹操はただ一人馬に乗り、韓遂・馬超と会談した。馬超は剛力を頼みに、ひそかに突き進んで曹操を捕まえるつもりだった。(『馬超伝』)
演義ではこの時期に許褚と一騎打ちをしていますが、正史ではさすがにしていないのですね。それにしても兵数十万とはスケールが大きいですね。
統率が高いのもその辺りの統率力を買ってのことであろうな。
逆に軍事は他の4人に比べると少し抑えている、と言う印象ですね。
これは正史では捕まえるつもりだったが、許褚がいたことで断念していたり、一騎打ちも行っているが、相手は許褚や張飛ではなく閻行殿で、しかもあわやと言う所まで追い込まれておることが他の四人よりわずかに軍事が抑え目な理由であろうな。
知謀・政治
曹操に敗れた馬超は再び諸蛮族を率いて隴上の郡県を攻撃し、隴上の郡県は全てこれに呼応した。
馬超は自ら征西将軍と称し、幷州の牧を兼務し、涼州の軍事都督となった。(『馬超伝』)
だが、その前に涼州刺史の韋康殿を殺害したのがまずかったな。それも降伏した相手を殺害と言う、一番やってはいけないことをしてしまった。
それだけでなく韋康殿の元の部下たちをそのまま配下として使っている。彼らがどんな気持であったか、理解していないのだ。
韋康の元の吏民楊阜、姜叙、梁寛、趙衢らは(復讐のため)共謀して馬超を攻撃した。
楊阜と姜叙が鹵城で兵をあげ、馬超は出陣して彼らを攻めたが、下すことができなかった。その隙に梁寛と趙衢が冀州の城門を閉ざしたので、馬超は城に入ることができなくなった進退窮まって慌てふためき、かくて漢中に逃走して張魯の下へ身を寄せた。(『馬超伝』)
勇猛ですが、他人の感情を読み取らず、己の感情に従って行動してしまう欠点が見られますね。
呂布にも通じるところだが、治世面を評価するには、あまりにも自分本位に行動しすぎなのがな。最終的にはこう言うしっぺ返しを食らうことになるのだ。
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簡単解説
そうだな、一方の天舞三国志は人徳がかなり低い、お主の師匠も統率はあくまでも十万の大軍の率いた、と言う点から統率を評価しているのであって、人徳や魅力は決して認めてはいなさそうだな。
うむ、これだけの大軍を率いたのは恐らく関張もないであろうから、統率に関しては五将軍で馬超が一番で良いと思うんじゃ。
さて、馬超に関してはもう少し掘り下げて見ていきたいので、後1,2回やっていくぞい。
よし、それでは今日のところは帰るとするか。
張郃さん、今日はお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。