さて、今回は孫休の紹介4回目じゃな。今回は孫休が孫綝を排除していく過程をつぶさに見ていくとしようかのう。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回はいよいよ孫休の反撃を見ていくとしようかのう。
それにしても孫休も孫綝に対してはだいぶ不快に思っていたんですよね。相当辛抱強いですよね?
まあ、不快感を表に出さずに奥に秘めていた辺り、孫権の血を引いていると思わせるな。
それにしてもいよいよ反撃ですかどういう感じで対策するのか楽しみですね。
今回は皆も知っているメジャーな人物も出てくるからのう。それでは早速見ていこうかのう。
人物紹介
孫休の秘策
それでは早速孫休の反撃の内容についてみていくとしよう。
孫休は、孫綝がクーデターを計画していると聞き、ひそかに張布とその対策を練った。(『孫休伝』)
張布が言った。「丁奉は事務的な能力はございませんが、人に優れて巧みに計画を巡らし、大事を断行できる人物です。」
孫休は丁奉を呼び寄せて告げた。「孫綝は国家の威光を己が手に握り、大それたたくらみを懐いておる。将軍と力を合わせ彼を誅殺したいと思う。」
丁奉が言った。「丞相(孫綝)には兄弟や親しく交わる者が多く、人々の心もすべてがお味方するとは限らず、慌ててことを起こされればいかなる事態になるやもしれません。
臘の祭(冬至の後に行う、祖先や諸々の神たちの祭)に群臣たちが集う機会をとらえて、御前に侍る兵士たちの手で彼を誅殺されるのがよろしゅうございます。」
孫休はこの計略を納れた。(『丁奉伝』)
ここで出てきたのが丁奉だな。叩き上げの武将から成り上がり、この時代にまだ生き残っていた古参中の古参武将だ。
自らも最前線で戦い続けてきた生粋の武人ですね。この人がこの時代に呉にまだ残っていたのが、孫休にとっての幸いであった、と言うことですか。
丁奉の発言を見ると、謀議を成就させるために必要なことを的確に指摘しているな。
謀議と言うのは人を多く関わらせれば、どこから漏れるか知れたものではない。さりとて、巨大勢力となった孫綝に正面から対抗するのは厳しすぎる。
なるほど、謀議に加担させるのは張布と丁奉の最少人数にして、更に祭りと言うことで孫綝も軍事力を行使できないタイミングを狙った、と言うコトですね。
永安元年(258年)十二月戊辰(八日)の日、臘会が開かれた。孫綝は病気を理由に欠席しようとした。孫休は彼に強いて参加するよううながし、そのための使者が十数人も遣わされた。
孫綝は配下に火事を起こすよう伝え、自身は火事が起こればすぐに退出することとし、参内した。間もなく火事が起こり、孫綝は退出したいと求めた。
孫休が言った。「宮城の外にも兵士は多いことであることから、わざわざ丞相(孫綝)を煩わせることもあるまい。」
孫綝は立ちあがって席を離れようとした。丁奉と張布が側仕えの者に合図をして彼を縛り上げさせた。
孫綝は叩頭して言った。「(死一等を減じて)交州への配流にしていただきとうございます。」
孫休が言った。「あなたはなぜ滕胤と呂拠とを配流にはせず(殺害してしまったのか)。」
孫綝は再び言った。「宮廷の奴隷として(一命だけはお助けくださいますように)。」
壬子(二十一日)の日の詔では次のように言った。
「なぜ滕胤と呂拠とを奴隷にせず(殺害してしまったのか)。」
そう言うと彼を斬罪に処した。孫綝の首を示しつつその配下の兵士たちに命じて言った。「孫綝のはかりごとに加わっていた者たちも皆赦免するので(降伏するように)。」
武器を棄てる者が五千人にのぼった(『孫綝伝』)
うわー、これは見事な処理でしたね。それにしても孫綝も何となく身の危険を察知していたのは大したもの、と見て良いのですか?
どうかな。それだけ自身があくどいことをやっていた、と言う自覚があっただけではないか。
それにしてもこれでやっと呉国内の情勢は落ち着くんですね。
とは言え、これがほぼ孫休最後の輝きだからな。
そういうことじゃな。それでは次回、その後の孫休について軽くまとめて終わりとしようかのう。
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