さて、今回は孫休の紹介3回目じゃな。今回は孫休の皇帝になってから、孫綝とどう相対していたのか、その辺りを中心に見ていこうと思うんじゃよ。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は孫休について、皇帝になってから孫綝とどう対峙していたのか、見ていくとしようかのう。
実際のトコ、孫綝の権力はすごかったようですし、どう対抗しようとしていたのでしょうか?
聞きたいか・・・それは徹底的に孫綝のご機嫌を取った、だ。
え、でもそれじゃいつまでも孫綝の権勢が続いちゃうじゃないですか?
まあ、実際孫休がどこまでどう考えていたのか、こればかりは本人でないと分からんが、最初徹底的に孫綝の機嫌を取っておったのは事実じゃ。それでは時系列を追っていくとしようかのう。
人物紹介
皇帝に
孫休が皇帝になる際の逸話は孫恩のところにあるので詳細はそちらを見てくれい。
さて、皇帝になった後の孫休じゃが、一度しくじっているんじゃよ。
孫綝は孫休の下に参内すると牛酒を献上しようとしたが、孫休が受け取らなかったので、それを持って左将軍の張布の下を訪れた。酒が回ると、孫綝は恨み言を言った。(『孫綝伝』)
この時孫綝は酒に酔った勢いもあっただろうが次のように不満をぶちまけている。
「自分がいなければ皇帝になれなかった」
「これでは一般の臣下と全く同じ待遇ではないか」
「もう一度、改めて廃立のことを行わねばならない」。
うわあ、これは・・・すごい思い上がった台詞ですね・・・。
そうだ、この言葉は密かに張布から孫休も聞いて、不快感は感じていたようだが、それでもこれ以降、更に孫休は慎重に孫綝を丁重に扱うようになったのだ。
永安元年(258年)十一月丙申(五日)の日、詔を下して言った。
「大将軍(孫綝)の忠誠は心中より発し、大いなるはかりごと(孫亮廃立、孫休即位)を首唱して、国家を安泰たらしめた。
~中略~
すみやかに、過日この義挙の計画に参与し朕の即位に尽力した人々の名を調べて定めて、そのうちのこれまでの例により爵位を加えられるべき者たちには、急ぎ爵位のことを実施するように。」
戊戌(七日)の日の詔では次のように言った。
「大将軍は中央と地方の諸々の軍政を取りしきっており、その職務は煩多である。衛将軍・御史大夫の孫恩を侍中に任じ、大将軍と分担して諸事の処理に当たるように。」
壬子(二十一日)の日の詔では次のように言った。
「武将や官吏の内、永昌亭に出迎えて付き従った者には、みな官位一級を加増する。」。(『孫休伝』)
永昌亭って、孫休が皇帝になる前に向かったとこですよね。確か孫恩が赴いていますから、これも孫綝一族をあげることになっているのですね。
これだけではないぞ。更に孫休は次のようなこともやった。徹底しているのだ。
孫綝が主上に不満を懐きあなどって謀反を図っていると告発する者があった。
孫休はその者を捕えて孫綝に渡したところ、孫綝はそれを殺害した。(『孫綝伝』)
これは・・・いや、やはり孫休情けなくないですか、本当に良い終局を迎えられる気がしないのですが。
そう感じるかもしれないが、だが孫休自身が心中に不快感を抱えている、と言うのは上でも書いているように事実だ。
そうじゃな、ここからが孫休のターンとなるはずじゃ。もう少し待っておれ。さて、今日はここまでとしておこうかのう。
↓ バナーをクリックしてくれるとうれしいぞい