さて、今回紹介する人物は孫邵じゃな。字は長緒、生没年は163~225年じゃな。
劉備とほぼ同世代ぐらいになるのう。
孫姓じゃが、呉の孫一族とはまた別の孫氏なんじゃ。じゃが何の縁か呉に移り、重要な役割を果たす人物となるんじゃよ。
さて、今回は孫邵と言う人物じゃな。彼もマイナーな人物じゃのう。
孫権達とは違う孫一族なんですか?
そうじゃな、遠い祖先でどこか接点があったやもしれんが、彼は北海の人物なので、全く別系統の孫氏じゃろうな。
なるほど、そんな彼がどのように孫呉と関わっていくのか、興味がありますね。
うむ、それではさっそく紹介していこうかのう。
人物紹介
若き日の孫邵
さて、冒頭でも書いておるが、孫邵は北海郡の人物じゃ。
身の丈は八尺と言うから、一尺を24.2㎝とすると190㎝を超えるんじゃよ、みごとな体躯と言えるんではなかろうか。
彼は当初孔融の下で功曹の官に付いたんじゃよ。
功曹は官吏の功績を算定する役人じゃから、結構重要な立場になるんじゃな。
孔融自身も彼を「朝廷に立つべき才だ。」と高く評価し、賞賛するんじゃよ。
後に劉繇の下に身を寄せたとあるので、是儀と同様、青州黄巾賊の乱から逃れたのではなかろうか。場合によっては是儀と共に避難したのかもしれんのう。
孫権の下で
孫権が江東を支配すると彼に仕えるようになったんじゃ。彼はしばしば献策し、朝廷に公式の使者を送って献上物を奉るべきだと述べた時には、孫権はすぐさまその意見に従ったそうじゃ。
また後年、曹丕が孫登を朝廷に仕えさせようとした時に、孫権は返書で、孫長緒(孫邵)を使者として孫登と共に朝廷に赴かせるつもりです、と書いているんじゃ。
まあこれは方便で、結局言を左右にして息子を朝廷に送ることはなかったんじゃがな。
後に盧江太守に任ぜられ、車騎長史に昇進したんじゃ。
更にこれに留まらず黄武初年(222年)には丞相・威遠将軍になり、陽羨侯に封ぜられるんじゃ。つまり呉の初代丞相が実は孫邵だったんじゃな。
じゃが張温と曁豔が、彼をあげつらった上奏をしたため、孫邵は官位を辞して罪を請うたんじゃが、孫権は罪を許して元の職に戻らせたそうじゃな。
そして孫邵は六十三歳で亡くなったんじゃ。
丞相孫邵の謎
さて呉の初代丞相にまでなった孫邵じゃが、何故か呉書には立伝されておらんのじゃ。どうやら調べてみると別の史書に孫邵は張温と仲が悪かった、と書かれているんじゃ。そして後に韋昭が呉書をまとめることになるんじゃが、韋氏が張温の一党であったため、意図的に省かれたんではなかろうかと『志林』では言われておるんじゃよ。
もしかしたら顧雍や陸遜等と肩を並べるぐらいの大物であったかもしれんのじゃが、残念な話じゃな。
さて、そんなところで人物紹介は終わりじゃな。続けて能力評価と行くぞい。今回は天舞さん以外の二作品に出ておるようじゃな。
能力評価
孫邵は孔融から朝廷に努める才がある、と評価され、実際後に孫呉で丞相になり、またいくつかの献策による実績があることから政治面を高めとしておるんじゃよ。。
また丞相と共に将軍職にも就いておることから、統率も少し高めとしておるんじゃ。これはどちらかと言うと統率の高い武将の少ない孔融陣営で少しだけ統率を高くした、苦肉の策じゃな。
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雑談ぢゃ
さて、孫邵の能力評価じゃ。
鄭問さんは知謀が高いですね。師匠と三国志14では政治が高いんですね。
そうじゃな、是儀と違い彼には謀議にあずかった、と言う記述がみられんから知謀はそこまで高くはしていないんじゃな。
記録が残っていないのが残念ですね。
そうじゃな、顧雍らより先に丞相になったほどの人物じゃ。親族と言う訳でもないことを考えると、評価すべきポイントが絶対あったと思うんじゃがな。
それでも十分高いですけどね、孔融陣営においては今のとこ一番統率が高いんじゃないですか。
うむ、王脩に足りない部分を補うような感じでちと統率を高めにしてみたんじゃ。まあ将軍職に就いたこと以外目立つ実績がないので、極端に高くならないギリギリのラインじゃがな。さて、今回はここまでじゃな。
分かりました、次もよろしくお願いします。あ、それと人物索引も載せておきますね。気になる方がいたら以下の索引からご覧ください。