さて、今回は呉景の紹介じゃな。字は不明、生年は不明じゃが没年は203年じゃな。彼は孫堅の妻、呉夫人の弟にあたる人物であり、まだ若かったのではなかろうか。
さて、今回は呉景の紹介じゃな。
どうも、張郃だ。呉景は孫策や孫権の叔父にあたる人物だな。今までも何度か名前が出てきている人物だな。
劉繇のところでよく名前が出てきていましたね。
うむ、目立たない人物であるが、呉景について見ていくとしよう。
人物紹介
さて、呉景についてじゃが、呉夫人が孫堅に嫁いで以降、いつも孫堅の下にあって征伐に従い、功績を立てて騎都尉に任じられたんじゃ。
この頃揚州刺史となった劉繇を案内し、曲阿に導いたんじゃ。じゃが丁度同時期袁術は呉景を丹陽太守に任じ、元からの丹陽太守の周昕を討伐させたんじゃよ。
そして同じく袁術の下にいた孫策は孫河と呂範を呉景に預け、共同して涇県の山中に拠る反乱者の祖郎を討たせたんじゃよ。
じゃが、元丹陽太守であった周昕は漢王朝から任命された太守であったため、同じように漢王朝から刺史に任じられていた劉繇は呉景達に不信感を抱き、敵対関係になってしまうんじゃな。
個人的には劉繇も呉景等といっしょにやりたかったであろうが、袁術との関係から許せんかったのだろうな。
この劉繇の圧迫により呉景は一旦袁術の下に身を寄せたんじゃ。
すると袁術は呉景を督軍中郎将に任じ、劉繇を攻撃させるんじゃ。じゃがこれはなかなかうまく行かず、孫策が参戦してくるまで、樊能と于糜を攻略することができんかったんじゃよ。
孫策参戦後は孫策に従って各地を転戦し、劉繇が予章に逃げ込むと孫策は呉景と孫賁とを寿春に遣って、袁術に報告させたんじゃよ。
後に袁術が皇帝を僭称するようになると、孫策は手紙を送ってその不可を解いたが、袁術は聞き入れんかったんじゃ。
そこで孫策は長江の津(渡し場)を閉鎖して、袁術との往来を断ち、呉景にも連絡を入れると、呉景はすぐさま広陵太守を放棄して孫策の下へ戻ってくるんじゃよ。
孫策はすぐに彼を丹陽太守に任じ、漢の朝廷もそれを認可し、更に揚武将軍に任じられるんじゃよ。そして203年呉景は罪人のまま亡くなったんじゃよ。
目立たないが黎明期の呉を支えた重要な人物であった、と言うことだな。
孫一族の親族衆として、孫賁や孫静と共に孫堅亡き後の兵達をまとめた人物じゃからな。さて、呉景の人物評価は終わりじゃな。続けて能力評価と行こうかの。彼は全作品に登場じゃな。
能力評価
呉景は各地の討伐での実績はあるものの、劉繇配下の樊能や于糜等を攻略できなかったことから、軍事はやや抑えめで、ただ統率には優れていたと考えられることから、統率の方が高めの評価としたんじゃ。
また知略に関しては信ぴょう性は怪しいものの、策略を以て周昕を太守から追い落とした話もあることからこちらも高めの評価、更に各地で太守を務めていることから、政治もそれなりの評価としたんじゃな。
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雑談ぢゃ
さて、呉景の能力評価じゃな。
ふむ、お主と三国志14以外は全体的に辛めの評価だな。
しかも師匠が高く評価している知謀が他は軒並み低いのですね。
『献帝春秋』で策略を使って周昕を丹陽太守から追い落としておるからワシはそこを評価しておるが、この書物も信ぴょう性は怪しいからのう。それを除けば知謀はもう少し低くても仕方ないかもしれんのは確かじゃな。
まあそこはお主は評価する、としたのだから良いではないか。おかげで昨日紹介した韓当と組ませると非常にバランスの良い軍団ができるのではなかろうか。
そうじゃな、軍事が一番低いから、そこを補えばバランスの良い軍団が出来上がるのう。その辺りはまた陣営紹介の時にでも見ていくとしようかのう。では呉景の紹介はここまでじゃな。良ければ次もまたご覧くだされ。
よし、それでは俺も帰るか、次もよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。