さて、今回紹介するのは左髭丈八じゃな。字や生年は不明、没年は恐らく界橋の戦いの後じゃから192年と思われるぞい。
彼もまた黄巾賊の中でも一方の雄であったようじゃな。
どうも、くまの爺じゃよ。さて、今回紹介する人物は左髭丈八じゃな。
どうも、張郃だ。左髭丈八か、またこれは面白い名前にしたものだな。
何となく意味は分かっちゃったんですが、どんな意味があるんでしょうか?
まあ、察しているなら前起きはいらんか。ずばり髭が長い、それだけだなw
指揮能力とか才能ではなく、見た目だけ、と言うのが面白いのう。それでも彼もまた一方の雄だったようじゃがの。それでは早速見ていくとしよう。
よろしくお願いします。
人物紹介
さて、左髭丈八についても他の連中と同様、記述はわずかじゃな。
魏志『張燕伝』の注釈、『九州春秋』に、184年に張角が反乱を起こした時に、共に兵を挙げた人物の紹介があり、その後、張璠の『漢紀』によると、郭大賢、左校、左髭丈八の三つの徒党があったと言うんじゃ。張燕等とは別の勢力と言うことじゃな。
『漢紀』によると左髭丈八も有力な頭領の一人だった、と言うことじゃな。
また『典略』で、彼らは勝手に字をつけておったようじゃが、左髭丈八は名前の通り髭の長い人物、と言うことじゃな。。
彼もまた左氏であることから、左校と何らかの血縁関係があったのかもしれないな。
彼も郭大賢、左校と並んで名前が出ておることから、黄巾賊の中ではそれなりに大物だったようじゃのう。
さて、192年に袁紹が公孫瓚との戦いに勝利した後、黒山賊が鄴城を攻め落とし、袁紹はピンチに陥るんじゃ。じゃが黒山賊も一枚岩ではなく、離反者をだし、彼らの助力を得て黒山賊をも打ち破るんじゃな。この時黄巾賊の頭領の一人だった于毒と、董卓に任命された冀州牧の壺寿は袁紹に敗れ斬られるんじゃが、その後袁紹達は山中を探索しながら北に向かい、左髭丈八等を迫撃し、全て斬り殺した、とあるんじゃ。
自慢の髭も戦の役には立たなかった、と言うことだな。
さて、袁紹にに斬られたことで左髭丈八の記録は終わりじゃな。この時袁紹に敗れた頭領たちの多くはその後の消息が不明、となっておるものが多いんじゃが、左髭丈八は斬られた記録が残っている人物じゃな。
さて、人物紹介はここまでじゃな。続けて能力評価と行くぞい。今回は・・・おや、天舞さんにも出ておらんようじゃな。
能力評価
左髭丈八も郭大賢や左校等と同様に、史書の記述内容としては袁紹に敗れた、と言うこと以外に目立つ実績もないんじゃ。しかも彼は斬られてもいることから、防衛が弱かったと見て、統率が一番抑えめじゃな。他も全体的に抑え目の評価じゃな。
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雑談ぢゃ
さて、左髭丈八の能力評価じゃな。
ふむ、しかし郭大賢や左校は入ってて、彼だけ天舞三国志に入っていないと言うのも、少し残念な感じがするもんだな。
そうじゃな、できれば皆セットで、と行きたかったのかもしれんが、人数が膨大になるから泣く泣く削ったんじゃろうな。
黄巾賊の方達、人数は相当いる感じですからね。
確かに、名前が残っている人物だけでも相当な数が上がっておるからのう。
順番につぶしていくのも骨が折れる作業でもあるからな。。
州をまたがって勢力を持っているから厄介ですよね。
そうじゃな。まあ、勢力は大きいが横のつながりが密、連携が優れている訳ではないから、張郃殿のように各個撃破ができたんじゃろうな。な。さて、今回はここまでじゃな。次もよろしく頼むぞい。
よし、それでは俺も帰るとしよう。次もよろしく頼むぞ。
張郃さん、お疲れ様です。次もよろしくお願いしますね。それと他の人物を見たいときは以下の人名索引を参照してくださいね。